Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

(新)般若の独り言~自己紹介

本日、当ブログにて、<是誰庵>改め、般若精舎建立(という勝手な行い~笑)をしましたので、簡単な自己紹介を。

私は神戸生まれの在日台湾人です。祖母の代からですから、三世に当たります。

小・中学校は神戸のインターナショナル・スクール(華僑系)に通いましたので、日中バイリンガルです(ついでに、家の中では台湾語を話していましたので、台湾語も少しできます。後、タイ語を少々)。

このスクールは、高校は付属していませんでしたので、地元の高校へ通いました(日本の公立高校のシステムがよく分からず、なじむのに苦労しました)。

仏法に目覚めたのは、5歳の時。

父の鳴らすレコードから「お釈迦さま」(「お富さん」の歌詞の一部)という言葉を聞いて、雷に打たれたように直立不動になり、「このひとは、とってもえらいひと!」「おおきくなったらこのひとのことを、けんきゅうするのだ!」と初発心。なかなかの早熟ではあります。)

それから以後、大乗経典を乱読しましたが、なぜか「仏陀はこんなこと言わない」「仏陀はもっと別の事を言ったはず」という気持ちが強く、「いつか本当の仏教に出会いたい」と思い詰めて、大乗になびく事は、一度もありませんでした(大乗非仏説を知った時は本当に嬉しかったです、25歳でした。大乗でも、禅宗は好きで、座禅を習いに行った事はあります。)

では、私の探していたダンマとは何か?

<無常・苦・無我>

もう、これしかありません、です。

高校進学の時に、父が英和辞典を買ってくれたのですが、私は「英和より、パーリ語辞典が欲しい」と拗ねていたのですから、子供のころからの原始仏教派(笑)。

インドにはもう仏教は残っていないと知って落胆していた頃、タイの森林寺院に御縁を頂いたのも、子供の頃からの<こけの一念>が実ったのでしょう。

30過ぎた頃から、アチャン・チャー系列の森林寺院を尋ねるようになり、1999年、パオ・セヤドーの著書「智慧之光」に出会った後、2000年前後に、緬甸(ミャンマー)パオ森林僧院を尋ねるようになりました。この時、50歳でした。

結婚願望があって、若くして家庭を持ちましたが、今は 息子や孫を持ちながらも、sayalay(尼僧)にソフト・ランディングできて、幸せな人生だと思っています。

(65年かけて歩んだダンマの道は、紆余曲折の旅でしたが、それが良かったのかも知れません。基本独学で、成功も失敗も自己責任。恨むとしたら、己の浅学、己の福徳の無さ。底が抜ければ、清々しいものです。)

    <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay 般若精舎>

 

是誰庵のひとやすみ~精舎建立

私は1999年~2001年の間、緬甸(ミャンマー)のモーラミャインにある、パオ僧院本山で出家し、sayalay(10戒)として、二年程、修行に勤しみました。

その時は、日本に残した息子たちも結婚しておらず、背負うべき責任もありましたので、還俗して日本に帰り、主婦として家庭に戻りました。

4年前、クムダ・セヤドー(パオ僧院ヤンゴン分院ご住職)とご縁を頂きまして、その頃より、クムダ・セヤドーの元で、もう一度、出家させて頂けないかと、考えるようになりました。

日本で尼僧として、一人で暮らしていくためには、10戒は無理なので(10戒は、お金に触れる事が出来ない為)、セヤドーと相談の上、9戒の sayalayならばという事で、2014年の暮、ヤンゴン分院にて、二度目の剃髪得度致しました(9戒=8戒+慈戒)。

あれから3年が経ち、私はテラワーダの出家者としての自覚も新たに、私の住まいである、庵の名前を、変更しようと思います。

<般若精舎>(パンニャ・ヴィハーラ)

特別な事は何もありません。

パオ・セヤドーに命名して頂き、クムダ・セヤドーにも、継承するようにと勧めて頂いた、私の法名 Pañña-adhika(般若の智慧鋭き者)を、そのまま精舎の名前に採ることにしました。

パオ・セヤドー、クムダ・セヤドーへの、謝恩の気持ちを込めて。

(今後、私の独り言<是誰庵のひとやすみ>は、<般若の独り言>に改題させて頂きます。よろしくお願いいたします。)

    <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay 般若精舎>

 

「身念処」6-3(最終版)

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

ネン:

修行の様子はどうですか?

学生:

私は、以前は妄想が比較的多かったですが、今は修行がよく分かるようになりましたーーその為に、私は、vipassanaについて、いとこや、知人に、話して聞かせたいと思います。

ネン:

あなたが妄想するのは、<今・ここ>を離れたからです。あなたは、どうしてあなたが<今・ここ>から離れるのか、その理由が分かりますか?

あなたは功徳を積みたいと思い、たとえば、他人に vipassanaを話し、教えたいと思っています。

あなたは妄想は、どのようにすれば消えると、思いますか?

学生:

横になって、色身を観照していた時、妄想は自然に消えてなくなりました。

ネン:

もし、あなたが身体を観る事に時間をかけると、あなたは、色身の真相を、見る事ができるでしょう。

もし、身体を観る事に少しの時間をかけると、少しの真相を発見するでしょう。

あなたは、照見する事が益々多ければ、発見する事も、益々多くなります。

しかし、観照する時間が長すぎると、あなたの覚照力は低下します。

このような時は、少し休んで、その後に、観照を再開すれば、覚照力は上昇します。

学生:

色身を観照している時、泣きたくなる時があります。

ネン:

あなたはこういう感覚を持っている。

何故であるか、あなたは分かりますか?

あなたは、なぜこのような感覚を持つのかを、知る必要があります。

たとえば、死体を見た時、あなたはある種の感覚を持ちます。または、美女を見た時も、ある種の感覚を持ちます。

あなたは、これらの感受がなぜ生じるのかを、理解するように、(+修行に)チャレンジする必要があります。

解決の方法は、明確な覚照力を保持する事です。

あなたは何をしているのか、この種の現象(泣きたい気持ち)は、どのような時に生じ、なぜ生じるのかを、観照しなければなりません。

たとえば、泣きたいと言う気持ちは、座る色身から、姿勢を変える時に生じるのであれば、それは心が、<今・ここ>から離れた事が、原因です。

もし、あなたが原因を知ったならば、あなたは、なぜ泣きたくなるのかという事の、原因が分かります。

この原因によって、<今・ここ>から離れるのです。

あなた方お二人(質問者は二人)は、似たような問題を抱えています。

しかし、原因は同じで(覚照力が弱い)、あなた方は身・心は不実(=実体が無い)である事を理解しなければなりません。

あなたの中の一人は恐れ、もう一人は、泣きたくなる・・・しかし、修行に関しては、お二人は進歩しています。

一切法とは、色法と心法の二法であって、その外に、何らか他のものが、ある訳ではありません。 

あなた方が修行する時、法を見なければなりません。座っているのは私ではなく、自我でもない。

我々の修行の方式は、座っている色身を観照するもので、もし、あなたがただ座っている姿を観照するだけで、何が座っているのかを知ることがないのであれば、あなたは法を見ていないし、法を分かってもいない、という事です。

あなたが法を理解したという時、それはあなたが、身とは何か、心とは何か、が分かった時です。

世間には多くの法がありますが、これらの法は、みな、色・心の二法に帰結されます。

もし、あなたが身・心をもって、それを所縁としないのであれば、あなたは、vipassanaを修行している事にはなりません。

学生:

私が修行する時、どのようにすれば、貪欲相応を避ける事ができますか?

ネン:

身・心は、我々の欲求によって顕現するのではありません。

それらは、自然に生じるのです。

我々は、意識的に創造して、身・心を顕現させたりする事は、出来ないのです。

たとえば、聞くという作用が生起する時、我々は、聞きたいから、聞いている訳ではありません。

故に我々は、この<聞く>という作用を利用して、智慧の啓発に使う事ができます。

この種の智慧は、心が聞いている(私が聞いているのではない)を知る智慧です。

もし、身・心が、あなたの欲求に従って顕現するものであるならば、それは真正なる身・心ではありません。

こうした事から、あなたは、姿勢を変える時に、その原因を明確にし、たとえあなたが、姿勢を変えたくないと思っても、あなたは変えざるを得ないのです。

このように(+よくこのことを知っていれば)貪欲の生起するのを防ぐことができますし、もし、修行中に、煩悩と相応しなければ、智慧は自然に誘発されます。

                 (<「身念処」アチャン・ネン著/翻訳終了)

     <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājem>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

「身念処」6-2

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

ネン:

あなたの修行の進み具合は、如何ですか?

修行に関して、何か疑問がありますか?

学生:

私は修行する時、四種類の姿勢の中から、比較的修行しやすいものを選んでいます。

たとえば、歩く姿勢、です。

このように修行しても、大丈夫でしょうか?

ネン:

それは良いです。

しかし、あなたは注意をして下さい。

もし、あなたが、歩く姿勢が、比較的好ましいと思うならば、これは貪念です。

故に、あなたは如理作意を保持して、姿勢を変えるのは、苦を治する為である事を観照して下さいーーこのようにすれば、貪念は出てきません。

学生:

私が修行するのは、身体の苦の為ではありません。

それは心の為ーー私は(+心の)イライラによって、姿勢を変えるのです。

ネン:

それは間違いです。

あなたは、煩悩によって姿勢を変えています。

あなたは、苦が原因で、それゆえ、あなたは姿勢を変えざるを得ないのだ、という事を観照するのだという事を、如理作意を用いて、実践していないのです。

あなたは、あなたの心が、なぜイライラするのかを知っていますか?

あなたは心をして、座る姿を観照する事に、安住させていないからです。

安住しなければ、あなたの心は不安になります。

あなたの心が不安である時、煩悩はやってきます。

あなたは軽率になり、不注意になりますーーその時、煩悩は踵を接してやってきます。故にあなたは、姿勢を変えて、様子(=修行の具合)を見てみたいと思うのです。

もし、あなたが貪念でもって、姿勢を変えるならば、煩悩はその中に隠れてしまい、道は見えなくなります。

あなたは貪念でもって修行しており、それはあなたが、成就を急いでいるのが原因です。

あなたは、姿勢を変える時、煩悩が混じっていないかどうかに、注意を払って下さい。

(6-3につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

「身念処」6-1

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

<アチャン・ネン問答篇>(p141~202/抜粋)

アチャン・ネン(以下ネン):

あなたは妄想しますか?

学生:

よく妄想します。ある時は妄想が大変に多く、有る時は少ないです。

ネン:

あなたは、なぜ妄想するのか、知っていますか?

学生:

知らないです。

ネン:

あなたが妄想する時、あなたはその前からすでに<今・ここ>を離れてしまっているのです。

あなたは、その前から、覚照力を無くしてしまっています。

その為、<今・ここ>において、あなたは身・心への覚照力を失い、それが失われた時、あなたは妄想をし始めるのです。

学生:

私が妄想を始めてしまった時、どうすれば、<今・ここ>に戻れますか?

ネン:あなたは、妄想するのは「心」であって、「私」ではない事を知らねばなりません。

妄想も法です。

あなたは妄想が嫌いでしょ?

違いますか?

学生:はい。

ネン:

あなたの知見(=考え)は間違っています。

というのも、もし、あなたが、自分にとって妄想がよいものである(ママ。前後意味不明)と知っていたら、あなたが妄想していると知った時、あなたはその時には、すでに<今・ここ>から離れていることを知って、又すぐに、<今・ここ>に戻って来て、身または心を、観照することができます。

あなたは、心をして、座る色身を長時間観照できるようになりたい、と思っているのではありませんか?

学生:はい。そうです。

ネン:妄想は、身体ですか、心ですか?

学生:妄想は心です。

ネン:あなたが妄想は心であると知る時、それを知っているという事は良いことです。

その後に、引き続き妄想心を観照する必要はありません。

というのも、心は非常に微細で、初心者にとっては、(+心を)観照する事は非常に難しいのです。

あなたは、あなたが妄想しているのを知った時、(+心をそれに向けて)それを分析してはなりません。

急いで<今・ここ>に戻って、座る色身の観照をして下さいーーもし、妄想が激しすぎる時は、姿勢を変えて下さい。

あなたは、妄想を消したいと思いますか?

学生:

はい。というのも、妄想は、察知するのが難しいからです。

それは四種類の姿勢のようには、簡単に察知する事ができません。

ネン:

その通りですね。

心は微細であり、初心者がそれを観照する事は難しいのです。というのも、初心者の正念と正知は非常に弱いからです。

故に初心者は、よく妄想します。

もし、正念・正知が<今・ここ>において保持されるならば、あなたは、妄想する事はありません。

あなたは身・心への覚照力を高めなければなりませんが、それは、<今・ここ>において、です。

あなたは、正念・正知の特徴を、よく知るようにしなさい。そうすれば、あなたが<今・ここ>から離れた時、離れた事をはっきりと知ることができ、そうであれば、即刻、<今・ここ>に戻る事ができます。

もし、あなたがよく妄想する為に、懊悩するのであれば、あなたは更に妄想するようになるでしょう。

あなたが妄想を消そうとしても、妄想は消えないのです;というのも、あなたは妄想が嫌いで、そして、この種の嫌悪的な心理が混じった妄想は、もう一つ別の、妄想の助縁になるからです。

妄想も心である事を知らないと、妄想に対して嫌悪を生じますが、この種の嫌悪の心理は、我々をして、<今・ここ>に戻れないようにするのです。

(6-2につづく)

   <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

「身念処」5-1

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

付録A

<一つの典型的な状態における識の例(心王ー心所)>

識ーー主に、七個の心所法によって構成されているーーそれは、触、受、想、思、彼所縁、命根、作意と呼ばれ、この七個の心所は<遍行>と呼ぶ。

というのも、それらは一つひとつの識(の状態)において、普遍的に存在しているが故に・・・また、一つひとつの個別の心、または思想的活動の中において、普遍的に存在しているが故に。

一つひとつの識は皆、この七個の心所と、その他の心所によって、構成されている。

例えば、我々は、この七個の心所によって構成されている所の界をもって、一つの状態にある識を代表させたいと思う時、この界以外の心所を加えて初めて、一般的な識を、表現することができる。

もし、一つひとつの識界が、この七個の心所のみによって組成さてるとして、その他の心所を参入させないならば、一個の識しか成立しない、という事になる。

しかしながら、その他に、45個の、異なる心所(遍行以外の心所)があって、一つひとつの識を区別できるようになっている。

これらの心所は、各種の、異なる組み合わせ方式で組成され、合計89個の異なる識になる・・・。

もし、我々が八個の貪根不善心(識)から、第一貪根不善心(識)を取り出して、我々の(識の)例にする時、これを仏教心理学の方法で分析するならば、我々は、この識は、19個の心所によって組成されている事を発見する。

これらの心所を、その組み合わせの別によって、記載するならば:

七遍行(名称既出)。

六別境(ある種の貪根不善心は、すべての六別境心所に具足する)。

四不善遍行(八個すべての貪根不善心には、この心所が有される)。

貪心所。

見心所。

(6-1につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

「身念処」4-6

   <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

4)もし、あなたが、ただ思考(黙念)の方式をのみ使って、無常・苦・無我が理解しようとするならば、煩悩を断じ除くことはできない。

というのも、あなたは実相般若を用いて、真理を体験している訳ではないが故に。真理を体験・体得する事は、一刻一刻の<今・ここ>において、身・心の三法印の生起を見なければならないーーこの種の真理(実相)の(+体得)の源は、修行から来ており、己自身で体験・体得する事が出来るものであり、教理を研究したり、経を聴いたり、法を問うたりしても、実証する事とは遠く離れている。

5)もう一つの、発生するかもしれない問題としては、修行者は、修行の方法を間違い、本人が、それを知らないでいる事。例えば、修行者は歩くときに、歩む足だけを見ていて、歩いている色身全体を見ようとしない。このような時、修行者は、善知識を尋ねて、正しい理論(修法)を理解するまで、学ぶべきである。

6)煩悩を断じ除き、苦痛を止息する正しい方法は、四念処を修する事である。四念処は、37道品の第一段階であるーーそして最後には四聖諦を体験・証悟しなければならない。この時、身・心(または五蘊)に対して、完全に執着しない(+心を)誘発することが出来る。そして、四道によって完成させる;入流道、一来道、不還道と阿羅漢道である。

7)四念処を修するには、バランスのとれた信と慧が無ければならない。

もし、あなたの信が、慧より強い時、修行が正しく進んでいるかどうか判断できない。

もし、あなたの慧が強すぎる時、「過剰な慢」が生まれる。その時、修行者は、涅槃に到達する事ができず、苦痛を止息する事もできない。

8)四念処を修する事に興味を感じる人(またはサマタを修行している人でも)修行の原則と正しい修法を知っていなければならない。

もし、一人の修行者が、真正なる仏法を実践したいと思うのであれば、信と慧によって完成させなければならないーーすなわち、前述した16階智である。

もし、修法を間違えると、修行者の邪見を糺すのは非常に難しく、それはちょうど大象が、泥沼に落ち込んだようで、一たび落ち込んだ者は、己自身自ら抜け出す事は非常に困難になる。

 

<来なさい!

今、私はあなた方に告げる:

因・縁の法は、虚幻変易である。

しかし、己自ら精進に努めれば、

道果を証悟する事ができる。>

       (仏陀最後の遺言。長部ニカーヤ)

(5-1につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>