<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
4)もし、あなたが、ただ思考(黙念)の方式をのみ使って、無常・苦・無我が理解しようとするならば、煩悩を断じ除くことはできない。
というのも、あなたは実相般若を用いて、真理を体験している訳ではないが故に。真理を体験・体得する事は、一刻一刻の<今・ここ>において、身・心の三法印の生起を見なければならないーーこの種の真理(実相)の(+体得)の源は、修行から来ており、己自身で体験・体得する事が出来るものであり、教理を研究したり、経を聴いたり、法を問うたりしても、実証する事とは遠く離れている。
5)もう一つの、発生するかもしれない問題としては、修行者は、修行の方法を間違い、本人が、それを知らないでいる事。例えば、修行者は歩くときに、歩む足だけを見ていて、歩いている色身全体を見ようとしない。このような時、修行者は、善知識を尋ねて、正しい理論(修法)を理解するまで、学ぶべきである。
6)煩悩を断じ除き、苦痛を止息する正しい方法は、四念処を修する事である。四念処は、37道品の第一段階であるーーそして最後には四聖諦を体験・証悟しなければならない。この時、身・心(または五蘊)に対して、完全に執着しない(+心を)誘発することが出来る。そして、四道によって完成させる;入流道、一来道、不還道と阿羅漢道である。
7)四念処を修するには、バランスのとれた信と慧が無ければならない。
もし、あなたの信が、慧より強い時、修行が正しく進んでいるかどうか判断できない。
もし、あなたの慧が強すぎる時、「過剰な慢」が生まれる。その時、修行者は、涅槃に到達する事ができず、苦痛を止息する事もできない。
8)四念処を修する事に興味を感じる人(またはサマタを修行している人でも)修行の原則と正しい修法を知っていなければならない。
もし、一人の修行者が、真正なる仏法を実践したいと思うのであれば、信と慧によって完成させなければならないーーすなわち、前述した16階智である。
もし、修法を間違えると、修行者の邪見を糺すのは非常に難しく、それはちょうど大象が、泥沼に落ち込んだようで、一たび落ち込んだ者は、己自身自ら抜け出す事は非常に困難になる。
<来なさい!
今、私はあなた方に告げる:
因・縁の法は、虚幻変易である。
しかし、己自ら精進に努めれば、
道果を証悟する事ができる。>
(仏陀最後の遺言。長部ニカーヤ)
(5-1につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。
<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>