南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

本雅難陀禅師アメリカ法話第一集‐51

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

▲【異なる性格の者には異なる業処を】

一人ひとりの衆生の性格は異なる。

故に、適合する業処も異なる。

禅修行者に、安般念だけを、教えるのはよくない。

ある種の人々は、貪心が重い。

私の父親、私の母親、私の妻、私の息子、私の娘・・・と執着する人に、もし、安般念を教えるならば、彼は毎日、これらの事柄を考えて、止まる事を知らず、心が静まることがない。

ある種の人々は、禅の修行の時、不断に未来について考えている。

明日、何をすればよいか、明後日は、何をするか、家の光熱費は払ってあるか、妻(夫)と子供は、家で楽しく過ごしているか。

・・・心は不断に未来を想い、心が静まらない人は、先に「死随念」を、修するのがよい。

ある種の人々は、思惟分別の力が高い。

智慧の高い者に、安般念を修させてはならない。

そうすると、彼は不断に思う:

私は、母親の母胎から生まれたが、先に入息があったのか、それとも出息であったか?

それは、長息であったか、短息であったか?

私は、経典には、入息が先であると書いてあると聞いたが、しかし、アビダンマでは、出息が先だと言う。一体どっちが正しいのか?

私は今後、入息の後に「死亡心」が生起するのか。それとも出息の後か?

この種の人々は、考えが止らないので、呼吸に安住することができない。

故に、彼らには「四大分別」と「死随念」がよい。真剣に、四大を、一時間修したならば、一度も妄想が起きない。

というのも、心は、全身の四大の12個の特徴に専注して、心は非常に忙しく、忙しすぎて妄想する暇はないのである。

四大に専注する修行者は、一時間は瞬く間に過ぎて行き、一時間をたった五分に感じるものである。

ある種の人々は、己自身、安般念を学んで久しいと誇りに思っている。

20年修した。

毎年一回、半日のリトリートに参加しているのに、なぜか成功しない。

己自身は「二因結生」ではないのか、と疑う。

故に、上達することがない。

・・・修行するものの、信心(=確信)が萎えてしまった者には、「仏随念」「法随念」「僧随念」が、適合する。

ある種の人々は、この修行法も不満、あの修行法も不満;

所縁に対して満足を覚えない人は、あれこれ恨みがましい心を、持っているもので、出会う事柄すべてに、不満を覚え、怒りを放っている。

・・・この様な人には「慈心禅」(慈悲喜捨の四無量心)、白遍(白、褐色、黄色、赤遍)がよい。

以上の性格の、どれをも持っているという人は、「6種類の遍処」(地、水、火、風、光明、虚空遍)と「四無色界定」(空、識、無、非)を修するのが、よい。

一人ひとりの性格は異なっているので、適合する業処もまた異なる。指導者と相談して業処を決めるのがよい。その様にして、初めて、己自身に合う業処を見つける事ができる。

己自身がどの業処が合うか、先に修行して試してみるとよい。

ある種の人々は(+どの修法でもよく)、適当な時期に業処を転換するだけでよい。

ある種の人々は、日常生活の中において、正念の濃度、密集の度合いが足りない。そのために心がなかなか静まらないが、それは業処とは、関係がない。

・・・修行者の心が静まらない場合は、適合する業処に転換するほかに、日常生活において、正念の濃度を保つ努力も、しなければならない。

(52につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。<翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>