<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
▲【異なる性格の者には異なる業処を】
一人ひとりの衆生の性格は異なる。
故に、適合する業処も異なる。
禅修行者に、安般念だけを、教えるのはよくない。
ある種の人々は、貪心が重い。
私の父親、私の母親、私の妻、私の息子、私の娘・・・と執着する人に、もし、安般念を教えるならば、彼は毎日、これらの事柄を考えて、止まる事を知らず、心が静まることがない。
ある種の人々は、禅の修行の時、不断に未来について考えている。
明日、何をすればよいか、明後日は、何をするか、家の光熱費は払ってあるか、妻(夫)と子供は、家で楽しく過ごしているか。
・・・心は不断に未来を想い、心が静まらない人は、先に「死随念」を、修するのがよい。
ある種の人々は、思惟分別の力が高い。
智慧の高い者に、安般念を修させてはならない。
そうすると、彼は不断に思う:
私は、母親の母胎から生まれたが、先に入息があったのか、それとも出息であったか?
それは、長息であったか、短息であったか?
私は、経典には、入息が先であると書いてあると聞いたが、しかし、アビダンマでは、出息が先だと言う。一体どっちが正しいのか?
私は今後、入息の後に「死亡心」が生起するのか。それとも出息の後か?
この種の人々は、考えが止らないので、呼吸に安住することができない。
故に、彼らには「四大分別」と「死随念」がよい。真剣に、四大を、一時間修したならば、一度も妄想が起きない。
というのも、心は、全身の四大の12個の特徴に専注して、心は非常に忙しく、忙しすぎて妄想する暇はないのである。
四大に専注する修行者は、一時間は瞬く間に過ぎて行き、一時間をたった五分に感じるものである。
ある種の人々は、己自身、安般念を学んで久しいと誇りに思っている。
20年修した。
毎年一回、半日のリトリートに参加しているのに、なぜか成功しない。
己自身は「二因結生」ではないのか、と疑う。
故に、上達することがない。
・・・修行するものの、信心(=確信)が萎えてしまった者には、「仏随念」「法随念」「僧随念」が、適合する。
ある種の人々は、この修行法も不満、あの修行法も不満;
所縁に対して満足を覚えない人は、あれこれ恨みがましい心を、持っているもので、出会う事柄すべてに、不満を覚え、怒りを放っている。
・・・この様な人には「慈心禅」(慈悲喜捨の四無量心)、白遍(白、褐色、黄色、赤遍)がよい。
以上の性格の、どれをも持っているという人は、「6種類の遍処」(地、水、火、風、光明、虚空遍)と「四無色界定」(空、識、無、非)を修するのが、よい。
一人ひとりの性格は異なっているので、適合する業処もまた異なる。指導者と相談して業処を決めるのがよい。その様にして、初めて、己自身に合う業処を見つける事ができる。
己自身がどの業処が合うか、先に修行して試してみるとよい。
ある種の人々は(+どの修法でもよく)、適当な時期に業処を転換するだけでよい。
ある種の人々は、日常生活の中において、正念の濃度、密集の度合いが足りない。そのために心がなかなか静まらないが、それは業処とは、関係がない。
・・・修行者の心が静まらない場合は、適合する業処に転換するほかに、日常生活において、正念の濃度を保つ努力も、しなければならない。
(52につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。<翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>