Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「身念処」4-5

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

3)修行者は、察覚力を保持し、三心が、<今・ここ>から離れていないかどうか、知らなければならない。

そうすれば、修行者は、何度も<今・ここ>に戻って来ることができる。

心の性質とは、それが、さまざまに変化する事である;

ある時は妄想心、ある時は欲心、ある時は淫欲心、ある時は法を疑い、ある時は昏沈、ある時は焦燥、ある時は覚照力(明覚)が弱くなる。

修行者は、常に<今・ここ>において身・心を観照する事ができるように工夫しなければならない。

また心が、<今・ここ>から離れた時は、焦燥してはならないーーというのも、心はコントロールできないもの(無我なるもの)であるが故に。

修行者の任務は、常に<今・ここ>に留まる事ーーその時、実相(修慧の刹那)は、それに伴って顕現する。この種の修行には、気力・根気が必要である。

(4‐6につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

「身念処」4-4

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

修行者は、以下の点に注意する事:

1)四念処を修して、涅槃に到達する道は、仏陀の教えに基づくものである。修行者の、修行による成果は、四念処修法の自然性と天賦、前の生においてなした修行体験における助縁、忍耐心、気力と、苦を滅する修行・実践への貢献の度合いによる。

2)四念処は、心の仕事であり、心は常に、座る色身、立つ色身など等を、観照する事に用いられる。

<あなたが座っている><あなたが立っている><あなたが歩いている>という邪見を(+正見に)変えるーーそのことを通して、無明煩悩を断じ除くのである。

煩悩を断じ除く方法は、正しい修行を実践する事ーーただひたすら、思考したり、推理しても、役に立たない。

もし、あなたが正しく修行する事ができたならば、あなたは正確な結果と智慧を得ることができる;

正しい智慧が生起する時、あなたは、心の三法印(無常・苦・無我)を体験・体得する事ができる。

所縁(身・心)は、非常に重要である;

所縁を正しく観照して、三心(精進、正念、正知。明覚、覚照とも)を誘発し、身・心の実相、非你(=あなたではない)、非自我(=エゴではない、エゴなどない)、無常かつ苦である事を照見するーーその後において、修行者は、身・心の禍と危険性を体験・体得し、それは捨て去られるべきだと知り、智慧を体験・証悟して、生死輪廻を断じ除くのである。

(4-5につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

「身念処」4-3

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

冷淡さ(捨)は、中道ではない。

ある種の人々は、己の心をして、愛も憎悪もないようにしたいと思っているが、それは間違いである。

このようにすると、「捨念」が生起する;

一切の法は無我(コントロールできない)のであり、故にこのような修行は、良くないのである。

ある種の修法は、心は空であるから、空を所縁にしようとするが、しかし、一つひとつの心は、所縁を有しており、この所縁は、心が生起する為の助縁である。たとえ出世間心であっても、涅槃を所縁としているのである。

多くの心、及び所縁は、好きとか、嫌いとかを誘発するが、四念処の所縁は、好きであるとか嫌いであるとかを、断じ除くことができる。

しかし、四念処の所縁もまた煩悩に至る事がある;

たとえば、あなたは、心をば、座る色身に安住させようとするが、これは貪(好き)を生じせしめる。

もし、あなたがそれを達成できない時(こういう事は非常に生じやすいーーというのも、心は無常であるから)、あなたは瞋恚(嫌い)を生じせしめる。

四念処に関して言えば、最も重要なのは、正念を具足することーー正知である。

ただ、<今・ここ>を保持する事によってのみ、貪と瞋恚を断じ除くことができる。

一つの所縁が出現した時、修行者は、この所縁の実相(自然的な真実の状態)を理解・了解できるまで、この所縁を観照しなければならない。

この所縁は、色法でなければ、心法である。

このようであれば、修行者は、身・心の無常・苦・無我ーー非「私」、非自我を体験・体得することができる。

(4-4につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

「身念処」4-2

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

4-1 総論

Vipassana修法は、七清浄、16階智、三解脱門(涅槃へと導く方式)、四念処など等を含む。ただし、上記の中で、真正に身念処に関連するのはーー特に四つの主要な姿勢と二次的な姿勢である。

その他の念処の修法ーー受念処、心念処、法念処ーーの修法は同じである。

16階智と七清浄もまた同じで、功徳も利益も同じであるが、ただ所縁に変化があるだけである。

しかし、受、心、法を念処とする修法は、その所縁が複雑である。受念処には九種類の受を観照しなければならない:苦受、楽受、捨受など等。

心念処は16の心を観照しなければならない:善心、不善心、定心など等。

法念処は、五蘊、六根、五蓋等を所縁とする。

こうした事から、修行者が、受、心、法を所縁として修習するのならば、注意が必要である。

たとえば、愛の受が生起した時、修行者は、この聚を理解、了解しなければならない。しかし、その為に修行者は、この受に執着する事があるかも知れない。

そのようであれば、修行者は、念住に到達することが出来ない。というのも、念住は、中道を通して実践されるものであるが故に。

もし、好きまたは嫌いが生じた時、修行者は、中道の実践ができない。

故に、修行にとりかかる前に、このことをよく理解しなければならない。そうでなければ、修行が正しく実践できなくなるからである。

(4-3につづく)

   <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

「身念処」4-1

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

第四章 総論

「ゴータマ大師、

何の因によりて、何の縁によりて;

なぜ、如来が滅度した後、聖教は常に存する事ができないのか?

また、ゴータマ大師、

何の因によりて、何の縁によりて;

如来が滅度した後、聖教は常に存する事ができるのか?」

「婆羅門よ、これは実修がないためである;

多く度々、四念処を修行しないが為に、如来の滅度の後、聖教は、常に存する事ができないのである・・・。」

      (相応部ーニカーヤ、大品)

(4-2につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

「身念処」3-17

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

16、思惟反射智

この智においては、修行者は、前のレベルにおける幾つかの智の、体験・証悟した所の、己自身に関する五つの事柄について、思惟する;

1)道智(第14階智)(この道より来た)。

2)果智(第15階智)(かつて、このような功徳を得た)。

3)涅槃(この法を縁にして通達、到達、成功した)。

4)すでに断じられた煩悩(これらの煩悩はかつて捨断した)。

5)残りの煩悩(これらは、私の残りの煩悩である)。

この智の源は、果智(第15階智)であるが、また再び、世間のレベルに戻って来る。

というのも、我々は、世間心を回復させ、涅槃もまた心の所縁ではなくなるが故に。

この智を体験・証悟して、どれか、前三つの段階に到達した成就者(ソータパナ、サターガミ、アナーガミ)は、「有学の聖者」と呼ばれる。

ここにおける智(第16階智)においては、阿羅漢であれば、ただ前四項だけを思考するーーというのも、阿羅漢は既に煩悩がなく、故に、残余の煩悩に関する思考をしなくてもよいからである。

すべての、この智に到達した聖者が、皆、上述のすべての問題を思惟する訳ではない。

ある種の、根器が非常に鋭利な修行者は、ただ、前の三項を思惟するーーそして、煩悩を全く思惟しない(+ようになる。)

このレベルの智慧は、第14、第15階智とは異なるーーそれらは<今・ここ>において、涅槃を所

縁としている。

そして、この智に関しては、修行者はただ反応するだけであって、<今・ここ>にはいない。

一つ前の智は、たとえば、塩のようなもので、この智の場合は、ただ塩の味を思惟する、ようなものである。

故に、この智は、出世間心ではなく、世間心である。世間智ではあっても、七清浄においては、それを智見清浄と見做し、出世間智(第14、第15階智)をば、その下位においている。

これは、この智が、第14、第15階智を源としているからである。

注:

1)最初に成就した階位において、第13階智は種姓智と呼ばれるが、それは修行者が、凡夫から聖人の種姓に変化したからである;

しかし、その次に来る智の成就(サターガミ等)は、灌頂智と言う。

というのも、この修の状況の下では、成就者はすでに早くから聖者になっているからである。

しかし、一つひとつの道果を成就する刹那心は、みな同じである。

2)第一階智から、第12階智までは、皆世間に属する。

第13階智は、過度的なものである;すなわち、半分世間、半分出世間である。

第14、第15階智は真正な出世間で、第16階智は、また再び、世間に戻って来るものである。

3)以下のような、10種類の障礙を持つ人は、輪廻の中に束縛される:

それらは;

1、「私」という邪見。

2、仏陀の教法への懐疑。

3、儀式と典礼に執着する(戒禁取見)。

4、貪欲。

5、瞋恚と恨み。

6、色貪。

7、無色貪。

8、慢。

9、掉挙(=浮つき)

10、無明

a)入流者(ソータパナ):前三種類の束縛を断じ除いている。入流者とは、涅槃に至ることのできる流れに入っている事を言う。

彼は最も多くて7回、生死すれば、解脱することができる。

彼は悪道:地獄、畜生、餓鬼、修羅に再生する事がない事が、すでに決定されている。

b)一来者(サターガミ):第四、第五の束縛が弱くなっている。彼は欲界に一度だけ戻れば、生死を解脱することができる(欲界とは、人、天の事である。)

c)不還者(アナーガミ):第四、第五の束縛は、断じ除かれた。彼は二度と、欲界には再生しない。

d)円覚者(阿羅漢):最後の五つの束縛も断じ除かれた。彼は如何なる世界にも再生しない。

4)七清浄:

第一階智とは、七清浄の中の見清浄である。

第二階智は、七清浄の中の度疑清浄である。

第三、第四階智は、道非道智見清浄。

第四から第13階智までは、行道智見清浄。

第14から第16階智は、智見清浄である。

(4-1につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

「身念処」3-16

   <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

15、果智

七清浄の中、この智は、智見清浄と呼ばれる。道心(道識)は、その一つ前の智(第14階智)において生起するが、それは涅槃を所縁とし、かつ、完全に惑を断じているーーその後、この智の内において、果心によって生起する所の感覚は、非常に深く、寂静である。

この種の順序は、法決定と呼ばれるが、(+悟りの)次第(順序)の基本(模式)であるーーまた、果心はいつも道心と共にやってくる。

果心が生起する時、ある時は三刹那であり、ある時には二刹那である。

根器が比較的怜悧な修行者は、遍作を飛び越して(=省略して)近作から始め、その後に随順、種姓、道、その後に果心(成果)があり、それは三回であり、二回ではない。

果心は、道心から生じる出世間果であり、果心は生起するやいなや、すぐに滅しさるーーそれには作用がない。果心が滅し去った後、涅槃は心の所縁でなくなる。果智のレベルにおいて、修行者は、二度目の聖者になる(第一回目は道智においてーーすなわち、第14階智)。

今彼は、ソータパナ果の聖者と呼ばれるが、最も多くても7回馬得れば、円覚することができる事が確定されている。

三つの階智について言えば、この智は、完全に証智の中にある。

(3-17につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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