<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
冷淡さ(捨)は、中道ではない。
ある種の人々は、己の心をして、愛も憎悪もないようにしたいと思っているが、それは間違いである。
このようにすると、「捨念」が生起する;
一切の法は無我(コントロールできない)のであり、故にこのような修行は、良くないのである。
ある種の修法は、心は空であるから、空を所縁にしようとするが、しかし、一つひとつの心は、所縁を有しており、この所縁は、心が生起する為の助縁である。たとえ出世間心であっても、涅槃を所縁としているのである。
多くの心、及び所縁は、好きとか、嫌いとかを誘発するが、四念処の所縁は、好きであるとか嫌いであるとかを、断じ除くことができる。
しかし、四念処の所縁もまた煩悩に至る事がある;
たとえば、あなたは、心をば、座る色身に安住させようとするが、これは貪(好き)を生じせしめる。
もし、あなたがそれを達成できない時(こういう事は非常に生じやすいーーというのも、心は無常であるから)、あなたは瞋恚(嫌い)を生じせしめる。
四念処に関して言えば、最も重要なのは、正念を具足することーー正知である。
ただ、<今・ここ>を保持する事によってのみ、貪と瞋恚を断じ除くことができる。
一つの所縁が出現した時、修行者は、この所縁の実相(自然的な真実の状態)を理解・了解できるまで、この所縁を観照しなければならない。
この所縁は、色法でなければ、心法である。
このようであれば、修行者は、身・心の無常・苦・無我ーー非「私」、非自我を体験・体得することができる。
(4-4につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>