Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

アチャン・チャー一日一話~27>「懐中電灯」

#27-150616

タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。P 36に、こんな事が書いてあります。

 

仏陀のダンマにおいて、我々はよく、「放下して、いかなる物事にも執着するな」という教えを聞きますが、これはどういう意味でしょうか?

その意味は、我々は手には取るが、(いつまでも)手に持ったままにはしない、という事です。

では、この目の前の懐中電灯を例にとって説明しましょう!我々は「これは何だろうか?」「知りたいものだ」と思います。それで我々はそれを拾い上げ、「ああ、懐中電灯だったのだ」と初めて分かり、そしてそれを下に置きます。我々はこの方式に従って「取り」ますが、「希求」についても同じ事です。あなたが何をも手に取らないならば、我々は何事かを成し遂げる事ができるでしょうか?(取る事を否定しすぎると)座禅・瞑想、またはその他の事も、何もできなくなります。そうです、「希求」には違いないのですが、未来においてそれはあなたを円満な状態に導いてくれるのですから、我々はまずは「取る」必要があるのです。

ここへ来るのも同じ事です。まずあなたには、ここへ来ようという「思い」がなければなりません。あなたに来る気がなければ、今日、あなた方がここにいる事は不可能です。我々は欲望によって行動していますが、欲望が生まれた時、それに執着しない事です。それは、我々があの懐中電灯に執着しないのと同じ事です。「これは何かな?」我々はそれを拾い上げて「ああ、これは懐中電灯だ」といって、そして、それを下に置きます。これが「取るけれども執着しない」の意味内容です。それが何であるかを知った後、即刻手放す。愚かに、ものごとに執着してはいけない。ただ、智慧でもって「取っ」て、そしてそれを手放す。善でも悪でも、すべて完全に余すところ無く手放す事(が肝要である)》

(「森林里的一棵樹」より)

 

「放下」。これは、中国の禅宗によく見られる言葉です。日本語にはないので、日本の禅宗では、そのまま使っているようですが、言葉の持つニュアンスまで伝わっているかどうか・・・?私も、文中に「放下」が出てくると、翻訳に苦労します(文脈に従って、直訳したり、意訳したり、状況説明の言葉を足したり、いろいろ考えながら翻訳する事になります)。

中国人なら「放下!(fang-xia!)」と言われると、叱られている感じがして、手にした物をすぐにでも放り出したくなりますが、このニュアンスを日本語で伝えるのは難しいです(工夫して、うまく表現できた時はうれしいです)。

                      (翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)