Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

アチャン・チャー一日一話~32>「手」

#32-150620

タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。P 41にこんな事が書いてあります。

 

《仏法の理論を研究している人たちと、座禅・瞑想の修行をしている人たちは、お互いに誤解しています。一般的に、研究(の重要性)を強調する人は“禅定を修行する僧侶たちは、自分の(個人的)見解に依拠していて、彼らの指導方法には根拠がない”と言います。

実際には、ある種の方面から述べるならば、学習と修行という二つの方式は、同じ事柄なのです。我々はそれを手の甲と掌との関係だと見なせば、理解がし易くなると思います。もし我々が手を伸ばすと、手の甲が無くなったように感じます。しかし、それは本当に無くなった訳ではなく、実は、裏に隠されただけなのです。我々が手をひっくり返せば、同様の事が起こりますが、掌がどこかへ行ってしまったなどという事はなく、裏側に隠れてしまっただけなのです。

修行について言えば、この事をしっかりと覚えておいてください。もし我々がそれを“失った”と思うとき、(修行への)気持ちが変わって、仏法の研究をして結果を得たいと思い、研究を始めたりします。ただし、あなたがどのように時間をかけて仏法を研究しようとも、永遠に仏法を理解する事はできません。真理に属する事柄を、心底、理解する事は困難であるからです。

もし我々が、仏法における真実如実の本性を獲得する事ができたならば、手放す事が出来るようになります。手放すとは――執着を廃し、二度と執着しない事。または、いまはまだ執着があるとしても、時間の経過に従って、徐々に弱まってくる事。このように、仏法の研究と修行は、ちょうど手の甲と掌の関係にあるのです!》(「森林里的一棵樹」より)

 

ブログ主:仏法の研究は好きだけれど、修行はどうも・・・という人は多いです。ある程度勉強したら、修行を始めるのかと思ってみていたら、いつまでたっても修行をしない。実は、研究命!だったりして(笑)。仏法の研究は面白いです。日本は宗派が多いので、その一つ一つを研究していたら一生飽きないです。しかし、仏法を学ぶだけで実践する事がなければ、老いて死に面した時、手には何の成果もなく、ただ時間を浪費したという後悔だけが残るでしょう。ゴータマ仏陀が「ナ・サルダー(信仰するな)」と教えたように、宗教の盲信はよくないですから、<学びと実践をバランスよく>というのが一番、ですね。

                     (翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)