Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー72

(中略)

覚音の《清浄道論》の中で、以前に上げたのと似た問題点が

他に幾つか、ある。三世輪廻の縁起はその内の一つで、

我々は、すでに検討したので、皆さんにも分かって頂いけた

かと思う。

仏教の幾つかの教理の内、彼の解釈の中に、バラモン教

教理にすり替わっているものがあるが・・・特に「世間」と

「世間解」についての解説では、それが顕著である。

世間解~~

彼が仏陀の徳号ーー「世間解」を解釈する時、古から伝承されて

いる、バラモンの説明方式によっていて、それは仏陀

「世間」に関する解釈とは、異なる。

仏陀の言った「世間」とは:「如来はかつて、世間とは、この

ようなものであると、開示した事がある。世間の初因、世間の

滅尽、および世間の滅尽に到達するための修行の道は、

すべて、『心』『思い』と結合した、生き生きとした、

この六尺の体の中にある」。

この言葉の意味は、六尺の体にこそ世間、世間の初因、

世間の尽滅、および世間の尽滅に到達するための修行の道があり

それは決して、死後のことではなく、この、命あり、感じる事

の出来る身体でもって、完全に、一切を具足しているのである、

と。

仏陀が「世間解」と呼ばれるのは、彼が、この種の世間を

悟ったからであり、この世間とは、四聖諦であり、

それはすなわち、世間、世間の起因、世間の尽滅、

および世間の尽滅に到達するための修行の道ーーなのである。

覚音の「世間解」への解釈は、このようなものではない。

彼の解釈は、私から言わせれば、仏教とは認めがたい。

というのも、彼は「世間」を「空間世間」と理解している

からである。彼の解釈は、古代バラモンの空間への信仰から

きており、すなわち、世間とはこのように広く、このように長く、

このように大きく、土地はこのように厚く、水はこのように深く、

空気はこのように濃密で、シュミ山及び七重山はこのように高く、

ヒマラヤ山はこのように荘厳で、エンブ樹はこのように巨大で、

他に六本、エンブ樹と同じ大きさの木があり、日輪、月輪、

四洲もかくのごとく大きいなどなど、これらは皆、仏教とは

関係がない。

仏陀が「世間解」である、と呼ばれる所の「世間」を、

「空間世間」と理解するなどという事は、私は、決して

認めない!

しっかりと、考えて頂きたい。

「世間」を「空間世間」と解釈するのは、バラモン教の教えで

あり、インド人の教えであり、仏陀以前の、古いインド人の

教えである。

「有情世間」の解釈では、覚音は、衆生には、それぞれ異なる根器

があり、ある者は垢が少なく(目に少しの塵がある)、ある者は

垢が多く(目に塵が多い)、利根の者、鈍根の者、教化し易い者、

教化しにくい者、善を行う者、悪業を行う者などを言うが、

しかし、四聖諦の「世間」には言及しない。(つづく)

訳者コメント:世間とは、主観(確率・概率)である。これ、

素粒子物理学でも証明されつつあります。私は、この客観世界

をおいて、自分だけ死ぬというのが恐かったのですが、なんだ、

世界って主観なんだ、と思った時に、気持ちが少し軽くなりました。

世間とは、この六尺の身体が造り出した幻想(空)という訳ですね。

(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語原

題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)