パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」10-21(325/430)
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
回答11
「ここにおいて、男性または女性がいて、驕慢であり、過度に慢心であって、
礼拝するべき人に礼拝せず、
立ち上がって敬礼するべき人に、立ち上がって敬礼せず、
座席を譲るべき人に、座席を譲らず、
道を譲るべき人に、道を譲らず、
恭敬されるべき人を、恭敬せず、
尊重されるべき人を、尊敬せず、
供養(=布施、以下同様)をするべき人に、供養しない。
この様な行為を履行し、従事するが故に、身体が壊滅し、命尽きた後、彼は苦界、悪趣、堕処、地獄に生まれ変わる。
しかしながら、もし、身体が壊滅し、命尽きた後、彼は苦界、悪趣、堕処、地獄に生まれ変わらず、人として生まれ変わるならば、どこに生まれようとも、彼は常に身分が低い者となる。
学生よ。
これが低賤に到る道である、それはすなわち、傲慢と過度な慢心であり、
礼拝するべき人に礼拝せず、
立ち上がって敬礼するべき人に、立ち上がって敬礼せず、
座席を譲るべき人に、座席を譲らず、
道を譲るべき人に、道を譲らず、
恭敬されるべき人を、恭敬せず、
尊重されるべき人を、尊敬せず、
供養をするべき人に、供養しない(+者の到る低賤の道である)。」
この点に関して、善覚(Suppabuddha)の物語を聞いて頂きたいと思う:
彼は釈迦族の王子であって、彼の父母は安闇那(Añjana)と耶所塔那(Yasodharā)である。
彼には兄弟がいて、名を坦達巴尼(Daṇdapāni)と言い、二人の姉妹は、それぞれ、我々の仏陀の母親摩訶摩耶(Mahā-Māyā)及び叔母の波闇波提瞿曇弥(Pajāpatī-Gotamī)であった。
彼は阿弥達(Amitā)を妻に娶り、巴達伽加那・耶輸陀羅(Bhadakaccāna-Yasodharā)と、提婆達多(Devadatta)が生まれた。
耶輸陀羅は、シッダッタ太子の妻になり、故に、彼は仏陀の岳父ということになる。
聞く所によると、仏陀が彼女の娘を捨て、又提婆達多に対して友好的でなかったため、怒りを買ったということである。
ある日、彼は強い酒を飲んで、仏陀の行先を邪魔した。
多くの比丘が道を開けてくれる様頼んだが、彼はそれを拒絶して、道を譲らなかった。
仏陀は、元の道を戻った。
阿難尊者は、仏陀が微笑するのを見て、仏陀に何故微笑するのか、と問うた。
仏陀は、七日の内に、善覚は、己自身の宮殿の一階で地中に落ちるであろう、と言った。
善覚は、二人の会話を盗み聞いて、すべての財産を己自身の宮殿の七階に運び、階段を取り払い、すべての扉を閉めて、かつ、一階毎に、強壮な護衛を立たせた。
七日目、善覚は、御用馬が、縄を解いて(+暴れた)。
善覚以外で、この馬を制御でいる人がいない為、門に向かって出て行き、その馬を制御し様とした。
門が自動的に開き、階段は元の位置に戻り、あれら強壮な守衛たちは、彼を下の階に放り出した。
彼が階段の最下部まで落ちた時、土地に亀裂が入り、彼は地面の中に落ち込んで、阿鼻地獄(Avīci-hell)まで、堕ちて行った。
このことから;衆生は己自身の内心の煩悩によって汚染されることが分かる。
また、優波離尊者(Upāli Thera)の物語もしっかり聞いて欲しい;
勝蓮華仏の時代、優波離は、一人の裕福な婆羅門であり、名を善生(Sujā ta)と言った。
仏陀が彼らの住んでいる町に来て仏法を開示した時、善生は大衆の中にいて、仏陀の為に花蓋を七日間支え続けた善慶沙門(Sunanda)がいる事に気が付いた。
仏陀は授記して、善慶は、ゴータマ仏の時代において、名を富楼那弥多羅尼子(Puṇṇa Mantāni-Putta)といい、説法第一の大弟子になる、と言った。
善生は、未来においてゴータマ仏に会いたいと思った。
彼は、勝蓮華仏が波提迦比丘(Pātika)が持律第一(viyana-dhara、戒律の暗誦)であると宣言した時、彼は、ゴータマ仏の時代において同様にの栄誉を得たいと発願したのである。
この目標を達成する為、彼は多くの善業を累積したが、その中の一項が、重資(=多くの金品)でもって、仏陀とサンガの為に一座の寺院を建てる事であった。その名は、所伯那(Sobana)である。
彼もまた止禅と観禅の修行をしt、行捨智の段階まで到達した。
しかしながら、二大劫の以前に、彼は国王安闇那(Añjana)の子であり、名は善喜(Sunanda)であった。
ある日、彼は大象に乗って、公園に行った時、路上で、パーチェカ仏提瓦拉(Devala)に出会った。
彼は種々の方式でもって、このパーチェカ仏を侮辱した。
彼がこの様な不善業を造(ナ)したのは、彼の、己自身の王子の身分に驕り高ぶりがあった為である。
その時、善喜は、全身が焼ける様に熱くなった。
それは、彼が従者と共に、パーチェカ仏に謝りに行くまで続いた。
パーチェカ仏を侮辱した業は、彼の最後の一世において、優波離として生まれた後、理髪師になった原因となった。
ゴータマ仏の時代、彼は迦毘羅衛城の、理髪師の家に生まれ、その後、宮殿の中において、王子たちの為に服務した。
阿那律、阿難などの王子たちが、阿努比亜マンゴー園(Anupiya Mango grove)に行って、仏陀に従って出家し様とした時、優波離もまた、彼らと共に言った。
王子たちは、彼らの身に着けていたすべての金銀財宝を優波離に上げようとしたが、しかし、優波離は、何度も考えた結果、これを受け取るのを拒否し、自分自身も出家したい、と思った。
彼がこの様な決意をしたのは、彼は釈迦の王族の多くは、性格が性急で暴戻的であるのを知っていて、彼が金銀財宝を持っていれば、彼が王子たちを殺してこれを奪ったのだと疑うに違いないし、そうなれば、彼の命はないのだと、考えた為である。
あれら釈迦王子たちの要求に従って、仏陀は、王子たちに謙虚さを学んでほしいと思い、先に、優波離を剃髪得度した。
優波離の戒師は、迦比達迦尊者(Ven. Kappitaka)である。
優波離が仏陀から禅修の業処を与えられて、森林に行って修行したいと申し出た時、仏陀は、彼が森林に行って修行するのを許可しなかった。
というのも、彼が森林に行くと、学べるのはただ禅修のみになってしまう;
しかしながら、彼が仏陀の身辺にいる比丘たちとともに住めば、禅修を学べるだけでなく、仏法を学べるからである。
優波離は、仏陀の提案を受け入れた。
彼は、観禅の修行に精進し、かつ、五根が充分に熟した時、四無礙解智と共に、阿羅漢果を証得することができた。
仏陀は優波離に律蔵(Vinaya Piṭaka)の全部を教えた。
仏陀は、サンガの大衆の前で、優波離は、戒律に精通する第一の大弟子であると宣言した。
彼は常に、戒律の権威として言及される(+人物となった)。
王舎城において行われた、第一番目の仏教聖典結集において、優波離尊者は、戒律に関するすべての問題に答える責任を負った;
阿難尊者は、仏法に関するすべての問題に答えた。
この事からも分かる様に、業が衆生の高下の身分を齎すのである。
次に、12個目の回答を聞いて下さい;
回答12
「ここにおいて、男性または女性がいて、驕慢でなく、過度に慢心でもなく、
礼拝するべき人に礼拝し、
立ち上がって敬礼するべき人に、立ち上がって敬礼し、
座席を譲るべき人に、座席を譲り
道を譲るべき人に、道を譲り、
恭敬されるべき人を、恭敬し、
尊重されるべき人を、尊敬し、
供養(=布施、以下同様)をするべき人に、供養する。
この様な行為を履行し、従事するが故に、身体が壊滅し、命尽きた後、彼は楽趣乃至天界に生まれ変わる。
しかしながら、もし、身体が壊滅し、命尽きた後、彼は天界に生まれ変わらず、人として生まれ変わるならば、どこに生まれようとも、彼の身分は、常に高貴である。
学生よ。
これが身分が高貴に到る道である、それはすなわち、不傲慢と不慢心であり、
礼拝するべき人に礼拝し、
立ち上がって敬礼するべき人に、立ち上がって敬礼し、
座席を譲るべき人に、座席を譲り
道を譲るべき人に、道を譲り、
恭敬されるべき人を、恭敬し、
尊重されるべき人を、尊敬し、
供養をするべき人に、供養する(+者の到る高貴の道である)。」
(10-22につづく)
(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>