翻訳『親知実見』Knowing and Seeing#39-15
問5-7:阿羅漢が般涅槃をする前、すべての善業も悪業も、熟しますか?
答5-7:すべての、ということは、無い。
有る種の善業、悪業は、熟して、果報を生じるかもしれない。
もし、それらがいまだ熟さないならば、果報を生じることはなく、無効業(ahodikamma)になり、如何なる果報の業をも生じない。
例えば、マハーモッガラーナ尊者の過去のある生における不善業は、彼が般涅槃する前に熟して、果報を生じた。
過去のある生において、彼は、失明している父母を殺そうと計画して未遂に終わった。この不善業の為に、彼は地獄に堕ちて、数千年の痛苦を味わった。地獄から出た後、約200生において、殺害される憂き目にあったが、その200生では、毎回、頭蓋骨を含む、頭部を打ち砕かれた。
何故であるか?
不善業が熟した故である。
禅業と不善業は、すでに熟していない限り、それらは如何なる果報を生じることはない。それらは、業と呼ばれるだけである。
問5-8;仏陀は、覚悟(悟りを得る事)して、仏に成った後、:「一切の衆生は、如来の智慧徳相を具備する」と言いましたか?答5-8:今、あなたは、釈迦牟尼仏はすでに覚悟した、と認めている。あなたは、如来が覚悟したことによる徳相が、一切の衆生の中に存在しているかどうか、思惟するべきである。
特に、あなた自身。
あなたは、如来の如何なる徳相を擁しているか(よく考える事)。
問5-9:阿羅漢が持つ、己自身の五蘊への空観(suññatā)と、外在する非生命物への空観は、同じものですか?涅槃と空境に入ることは、同じことですか?
答5-9:己自身の五蘊への空観と、外在する非生命物への空観は同じである。
涅槃が空(suññatā)という名を持つのは、聖道であるが故である。
禅修行者が、諸行法(saṅkhāradhamma)を無我として了知して、己自ら涅槃を見る時、彼の道智を、空解脱と呼ぶ。
まさに、道を空解脱と呼ぶ様に、道の目標ーー涅槃もまた空と呼ぶ。
ここで言う所の、空解脱とは、諸行法の無我の本質を照見する事を通して、煩悩から解脱する、煩悩から脱出する事を言うのである<注305>。
問5-10:すべての經文は、仏陀一人の言った事(の記録)ですか?
答5-10:パーリ三蔵の大部分の經文は、仏陀の教説である。
少しばかり弟子の教説も含む、例えば、シャーリプトラ尊者、マハーカッチャヤナ(Mahākaccāyana)尊者とアーナンダ尊者など。しかし、弟子の教説と仏陀の教説とは、意義において、同様である。
これらの經文の中において、例えば、マハーカッチャヤナ尊者の語った《マハーカッチャヤナ一夜賢者経》(M3.295)は、仏陀が「サードゥ」(sādhu)と述べて認可を与えている点などが、その証明になる。
問5-11:我々は、定の中において仏陀に会うことはできないならば、我々は、神通力によって、仏陀に会い、かつ、仏陀と、仏法について討論することは可能ですか?
答5-11:不可能である。
神通の中の一種に、宿住随念通(pubbe-nivāsānussati)と呼ばれるものがある。もし、禅修行者が、この神通を擁しており、かつ、過去世において、仏陀に会ったことがあるならば、彼が見ることのできるのは、過去の経験に過ぎず、新しい経験ではない。もし、過去のおいて、仏法を討論したことがあるならば、それは昔の古い問答であり、新しい問答ということは有り得ない。
<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>