翻訳『親知実見』#43-5
問6-6:もし、ある日、我々が、意外な出来事で死亡するならば、例えば、飛行機事故等、我々の心は、身体的な如何なる痛苦にも見舞われない様にする為、その時身体から「離れる」ことが出来ますか?
どの様にすれば、それは実現できますか?
禅修行者はその時、(日ごろの)修行の力を借りて、無畏で、自在でいられますか?
この様になるためには、どの程度の禅定が必要ですか?
答6-6:要求される禅定のレベルは神通(iddhividha abhiññā)である。
あなたは、これら神通の力を借りて、危険から抜け出すことができる。
しかし、もし、あなたの不善業が、すでに熟して、悪報を生じているならば、逃げることはできない。
あなたは、マハーモッガラーナ尊者の例を知っているだろうか。
彼は神通に精通していたが、しかし、不善業が熟したあの日、彼はジャーナに入ることができなかった。
これは、煩悩または蓋障が原因ではなく、ただ、すでに熟した所の、不善業による。
故に、強盗たちは、彼の骨を、米粒の様に、細かく打ち砕くことができた。<注334>。
強盗たちは、彼がすでに死んだと思い、ようやくそこを離れたが、その時、彼はようやく、ジャーナに入ることができ、神通力を回復することができた。
彼は彼の身体が元に戻る様にと決意(adhiṭṭhāna)し、かつ、仏陀の所へ行って、彼が般涅槃することの許可を得た。
その後、彼はカラシーラ寺に戻り、かつ、そこにおいて涅槃した。
彼の、あの不善業は、先に果報を生じ、その後にエネルギーを失った後、その時初めて、彼は神通力を回復することができた。
こうしたことから、もし、あなたが、まさに熟せんとする不善業なく、かつ、神通力を擁するのであれば、あなたは、飛行機事故においても、難から脱出することはできる。
しかし、普通の禅定と観智では、あなたを、この類の災難から守ることはできない。
実際、我々は、一人の人間が、これらの災難に遭遇するのは、彼の不善業が、熟したためである、と言える。
心は、身体から離れることはできない。
というのも、心は、必ずや、六処の内の一に依存して、初めて生起するが故に。
六処とは、眼処、耳処、鼻処、舌処、身処と心処である。
この六処とは、すなわち、あなたの身体である。
人間の世界において、心識は、依処を離れては、生起することができない。
故に、心は、身体から離れることができないのである。<注335>
しかしながら、もし、あなたが、ジャーナを擁するのであれば、我々は、あなたが危険に見舞われた時、迅速に、ジャーナに入ることを勧めたい。これは、あなたは、観禅に、禅に自在に入れる事を意味する。
もし、あなたが、危険に見舞われた時に、禅に入ることができたならば、この種の善業は、あなたを救うかもしれない。しかし、我々は、必ずそうなる、と保証することはできない。
もし、死亡の時に、ジャーナの中にあるならば、あなたは梵天界に生まれ変わることができる。
もし、あなたが、観の修習に精通しているならば、危険に見舞われた時、あなたは、観の修習をするのがよい。
あなたは、諸々の行法(saṅkhāradhamma)の無常(anicca)、苦(dukkha)、無我(anatta)の本質を識別しなければならない。
もし、あなたが、死亡の発生する前に、観の修習を徹底的に実践したならば、あなたは、何か一つの聖道(magga)と聖果(phala)を証悟することができ、かつ、死後、善趣に生まれ変わることができる。
もし、あなたが阿羅漢を証悟することが出来たならば、般涅槃するであろう。
しかし、あなたには神通もなく、ジャーナもなく、観の修習の能力もないならば、あなたは、善業に頼って、難から逃れることはできる。
もし、あなたには、長寿を保証する所の、充分に強力な善業があるならば、あなたには、難から逃れる僥倖のチャンスは残されている。
まさに、マハージャナカ(Mahājanaka)菩薩の様に。
ある時、彼は、(自分の乗る)船が遭難したが、彼は、唯一の生存者となった。
彼は、大海の中で、七日七夜、奮闘し、泳ぎ続け、最後に、一人の天人が彼を救ったのである。