ここにおいて、我々は、仏陀の述べた所の意味を検討してみたいと思う。
もし、弟子が、師長の指導によって四聖諦を了知したならば、彼の四聖諦の観智は、彼が、恭敬し、師長に四資具を供養した、その行為より更に利益がある。もし、彼が、入流道智(Sotāpattimagga-ñāṇa)と入流果智(Sotāpatti-phala-ñāṇa)を通して四聖諦を知見したならば、この種の観智は彼が四悪趣(apāya)から離脱する支えに成る。
この種の結果は、極めて殊勝である。
あれら、善行の育成を疎かにしている人々は、通常、皆四悪趣において、徘徊する。四悪趣は、彼らの家(Pamattassa ca nāma cattāro apāyā sakagehasadisā)<注427>の様である。
彼らは、ただ、偶に善趣に来るだけであるが故に、四悪趣から離脱するのが極めて難しい。
弟子が、恭敬し、師長に四資具を供養する行為は、この種の結果と共に語るのは、全くもって出来ないのである。
次に、もし、弟子が、一来道智(Sakadāgāmimagga-ñāṇa)と一来果智(Sakadāgāmiphala-ñāṇa)を通して、四聖諦を知見したならば、彼は、ただ、もう一度だけ、人間界に生まれ変わる。
もし、彼が不来道智(Anāgami-magga-ñāṇa)と不来果智(Anāgamiphala-ñāṇa)を通して、四聖諦を知見したのであれば、彼の観智は彼が11種類の欲界を超越する事を助けることができる。
彼は、必ずや、ただ梵天界にのみ生まれ変わることが必定であり、この欲界に戻ってくることはない。
梵天界の楽しさは、欲界より、はるかに上回る。
梵天界には男女の別なく、娘や息子や家庭というものはなく、騒乱と争いもないし、どの様な飲食もない;
彼らの寿命は極めて長く、誰も彼らの楽しみを打つ壊すことは出来ないし、彼らもまた、如何なる危険にも、出会う事はない。
しかしながら、いまだ阿羅漢果を証悟していないならば、彼らは、依然として、堕落、死亡と輪廻による再生に堕ちる事を免れえない。
<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>
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