wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書(主にテーラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言<是誰庵のひとやすみ>。

ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー83

パーリ経典には、更に複雑で錯綜している記述がある:

「名色の投入(=身心の状況への対応、変化)がある所、

(この場合は、一口の食物を咀嚼する間)、そこには、

行の増長がある」。

それは、行の造作力が、一回また一回と生じ続け、ますます

強烈になり、ますます多くなり、結果、強烈な意業を形成

するに至る。

次に:「行の増長のある所、継続して、そこには、新しい

有が生じる。」

まさに今、座って食事している時、そこには、行の造作があり、

その結果、継続して新しい有が生じる。

(食事が済んで)立ち上がる前、そこには特化された、

新しい有が生起している。

「新しい有のある所、(縁起が)引き続き相続して、

そこには、生、老、病、死がある」。

上記の記述を日常用語で解釈するならば、必ず、来世とか

未来世とかを形成してしまう。しかし、パーリ経典の中で、

仏陀は、そのようには言ってはいない。

典では、口の中で食物を咀嚼する将にその時、

もし貪、喜、愛が生起するならば、そこには新しい有が生じる、

と言っており、しかし、その他の事柄には、言及していない。

以上は、段食について、述べたものである。

このほかに、触食、意思食、および識食という三種類の食がある。

それらもまた、(段食と)同じ原則で、運行される。

この事によって、我々ははっきりと知ることができる。

色法(食物そのもの)の作用が、かくのごとく迅速であるなら、

心内の、「名」を造作する食糧ーー触食、意思食、識食は、

更に速い速度でもって、新しい有と生を生じせしめる事を。

この事は、経文を読むときに知っておかねばならない事実である。

我々がここで研究している(事柄の)原則とは、すなわち、

食べ物を食べて、貪と喜を生じせしめている時にのみ、

言い換えれば、美食に対して満足と興奮を感じている時にのみ、

生起するのであって、一たび咀嚼しなくなれば、それは生起

する事が無い。

故に、これら一切の事柄は、ただ食物を咀嚼し、舌が美味を

感じた時にのみ、生起する事を知っておく必要がある。

舌識は、舌根と味によって安住する。安住の後、引き続き増長

続け、咀嚼すればするほどは、さらに多くの識が継続して発生し、

増長する。(つづく)

訳者コメント:仏教書を翻訳していると、ウンウン唸る時

があります。仏陀の悟りの内容が微妙で理解しがたく、

どのような日本語にしていいか、分からなくなるのです。

読者の方々の誤解を減らすために、訳者が独自に付け加えた

文は(=~~)で表す事にしました。意味不の文章が

ありましたら、お知らせください。再考、推敲、

しますので。

(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語

原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)