<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
<メーチ・ケーウ法話集>
あなたは、村全体の茅葺の家の屋根に
使う萱を、すべて用意する事はできない。
布施は、自分の出来る範囲で、実践すべし。
もしあなたが、何か恥ずかしい事を
してしまったならば、
なるべく隠れていましょう。
ちょうど蛙が、人間が来るのに気が付いたら、
池の中に飛び込むのと同じように。
村のあちらこちらに行って、
法螺を吹いてはいけない。
もし、あなたが馬鹿ならば、
己を、賢いなどと言ってはならない。
口をふさがずに遠慮なくしゃべる人は、
話している内容が、正しいかどうか、
怪しい事多い。
本当に知っている人は、
口を開かずに黙っている。
必死に道理を説明する人は、
分かっていない事が多い。
どれほど親しい人であっても、
話をする時は慎重に;
どれほど心が傷ついていても、
癇癪を起こしてはならない。
あなたが善良な人間でないのならば、
はったりをかまして、
己を飾ってはならない。
己を、賢く善良であるように
見せかける人は、
実は馬鹿なのであり、
道徳に欠ける愚人なのである。
この世界に生まれて、我々は
過ぎていく一日、一月、一年を惜しみ、
己の生命と他人の生命を、愛惜する。
故に、いつも憂慮と苦しみと悲痛の中にいる。
我々は生れ落ちるや否や、
この脆弱な命に執着し、
その後に、不安になり、
あれが怖い、これが恐ろしい、と言う。
我々の心は、貪・瞋・痴と恐怖に刺激された
無明という名の習性に占拠され、
世間の色々な影響を受ける。
我々は、生まれながらにこのようであり、
もし、今、それを改めないのであれば、
死ぬまで、これらの習性に支配される。
なんと惜しい事よ!
我々は、生れ落ちるや否や、
苦のみがあって、
他のものは何もない。
我々は、
要る、要らない;
満足、満足できない;
座る、横になる、食べる、厠に行く
・・・・・・
解脱していないが故に、
苦が常に、傍にある。
故に、禅の修行の時、
この苦について、
中から外から、
徹底的に点検するべきである。
我々は、小鳥の歌声が好き。
でも、余りに賑やかに歌うと、
うるさいと言う。
我々は、これまで一度も、
満足するという事を知らない。
(7-3につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>