Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。偶には<是誰庵のひとやすみ>にて日常の心模様独白。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-112

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

8-9-1 尋と伺の止息(=止むこと)

ここにおいて「尋と伺の止息」とは、この両者を超越したその後にしか、第二禅に入れない事、を意味している。

自信:この言葉の意味は、信じる事、と同じである。ジャーナは、尋と伺によって生じた所の干渉を超越した時、初めて「自信がある」ようになるが故に。

[人は]問うかもしれない:

「この自信は、初禅においても存在していたのではないですか?なぜ、第二禅になって、初めて『自信と定心が生じる』などと言うのですか?」

この件に関しては、以下のように回答することができる:

尋と伺によって生じた干渉は、水が、さざ波または波動の干渉を受けるようなもので、初禅は、完全に自信を擁することができない。これが、信はすでにその中に存在してるものの、それを「これは自信である」等と称する事ができない理由である。自信が欠乏している為に、定もまた、明確ではない。

これがなぜ(+第一禅の定を)「有定心(=定有る心)」と呼ばないのか、という理由である。

しかし、第二禅の中の信が堅固であるのは、尋と伺の障礙がなく、立脚点がある為である;

定もまた、堅固で強い信が随伴しているが故に、明確に生起する。

これが、このジャーナが、どうしてこのように形容されるのか、という理由の説明である。

《分別論》もまたこのように言う、すなわち、「自信」の定義を、信、自信、信じる事、完全な自信、としている。「定心」は、心の安定・・・正定である。

(5-113につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>