パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-114
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
両支の捨離:
両支の捨離とは、尋と伺の捨離である事を、知っておかねばならない。
五蓋は、初禅の近行定において、すでに捨離されてはいるが、このジャーナ(第二禅)に関して言えば、尋と伺は、その近行定において、捨離されてはいない。
唯一、真正なる安止の時にのみ、当該のジャーナは、それらを伴わないままに、生起する。
故にそれらを「捨離支」と呼ぶ。
三支の具備:
それが具備する三支とは、喜・楽と一境性であって、具備するとは、この三者の生起の事であることを知っておかねばならない。
故に、《分別論》がジャーナを「信、喜、楽、一境性」であると言う時、これは隠喩的な言い方であって、当該のジャーナと、その構成要素を示しているのだ、と言うことである。
しかしながら、このジャーナには、信以外に、照明の相(=明るく照らす相)、または目標を徹底的に見る事のできる、三個の禅支が具備されている。
故に:
「その時、ジャーナに具備されるのは、どの三支か?それは喜・楽・一境性である」(《分別論》)と、いわれるのである。
(5-115につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>