<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
詳細な説明:心所依処に依存して生起する所の、一つひとつの心は、多くの(+世)代の微小粒子を生じる事ができるが、これを、心生色と言う。
似相(たとえば安般念)を縁にして、それを目標とするジャーナ心と近行定心もまた、多くの代の心生色を生じることができるが、これらは勝色(=すぐれている色)であり、全身に遍満する。これらの色法によって、禅の修行者は、その名身と相応する所の楽を感じるのである。
ジャーナから出て来た後、彼は楽を感じるが、それはその色身が、すでに、それらの勝色の影響を受けているからである。
覚者、聖者は、(+第三禅を)具備し、(+第三禅に)進入し、第三禅に安住する人を、以下のように言い、讃嘆する:
「捨と正念がある者は、楽において安住する」と。
どうして彼らはこのように讃嘆するのか?
というのも、第三禅は、極めて甘美な、円満な楽を具備しているが、彼はなお、第三禅において、中捨する事ができるからである。
これは、彼が、楽を歓び、好むことによって、それ(=楽に執着する事)に(+心が)向かう事が、ないからである。
というのも、彼は、喜の生起を防止する所の正念を通して、正念を保持しているからであるし、また、彼は、名身でもって、聖者によって、(+聖者が)喜ぶ所の喜びと、(+聖者によって)育成された所の、無染の楽を感受するからである。
(5-125につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>