Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

★飛び入り翻訳~『24縁発趣論』21-3

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

【ここにおいて、縁法ーー色所縁、縁生法の支えーー(+によって)眼門心路過程心と心所は生起し、かつ縁生法と同時に存在する時間内において、縁生法の継続的な存在を支援する】

我々は、一つの例を挙げてみようと思う。

我々凡夫の心内には、潜在的な煩悩ーー有身見が存在しているが、この煩悩は、継続的に、我々に随伴している。

我々は善い事をした時も、悪い事をした時も、有身見は、それ(”善行乃至不善行”)をば、”自我(atta、自分のもの)”と見做してしまう。

たとえば、あなたは凶行を行っている悪党を打倒したとする。

あなたは非常に喜んで言うに違いない:

「私は今日、ひとつ善い事をした!」

そして「それをしたのは”私である”」という考え、思いに、強烈に執着する。

またはあなたが、酒に酔って、朦朧としながら、女性にセクハラをしたとしよう。

目が覚めて、あなたは意気消沈して言う:

「私は間違いを犯した。私は許しがたい間違いを犯した!」と。

そして、”私が” という考え、思いによって、大いに苦悩するに違いない。

善行であっても、不善行であっても、有身見は、それらを”我がなした” という考えに、転換してしまうのである。

【ここにおいて、有身見は縁法であり、一切の ”それは私である(それは私のものである)” 

という発想は、縁生法である。

有身見は、有縁(因縁有縁)の縁力の支えを通して、”それは私である、それは私のものである”という考え、思いを継続的に存在させる】

有縁は合計五種類ある:

俱生有縁、

前生有縁、

後生有縁、

食有縁と

根(色命根)有縁である。

実際は、有縁は、各種の異なる縁を、含むものである。

この点に関しては、次頁において、グループ分けの説明をする時に、明確になると思われる。

不離去縁は、有縁に似ている。

二者の違いは、有縁は法の生・住・滅の過程を支えるのに対し、不離去縁は、法の生・住・滅の過程の中で、完全に去る前に、支援を与える事である。

(22-1につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay(2018年5月25日クムダ・セヤドーより

正式に初心者瞑想指導の許可を得る)