Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

『阿羅漢向・阿羅漢果』2-5(60/100)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

世俗諦のレベルでいうと、この状態は、必要不可欠な一部分でもある。

というのも、その他の、観察を必要とするものがない為、大念住と大智慧は、変化を生じている<点>に、直接、専注するからである。

この一瞬は楽、次の一瞬は苦;

この一瞬は光明、次の一瞬は少し暗淡。

しかし、あなた方は知らなければならない。

この、楽から苦、または光明から暗闇への転移は、非常に微細であり、その微細さと言えば、わずかに覚知され得る程度である事を。

とはいえ、大念住は、時々刻々、それと共にあるのではあるが。

”心はどうして、これほど色々に変化するのか?”

このポイントにおいて、念住は、他の一切の仕事を放棄して、すべての注意力を、この最も主要な嫌疑に注ぎ、全面的に観察し、それを、心に集中させる。

それらはすべて、相互に関連し合っているのであった。

この最高のレベルにおいては、大念住と大智慧は、同じく極めて微細であり、それらは例外なく、一切に浸透して行った。

この最高のレベルにおいて、最終段階に到達するための自動念と自動慧と、大念住・大智慧とは、異なるものである。

自動念と自動慧は、作意することなく、共に運用されるが、それらは、連続した段階でものごとを観察し、対象をひとつ又ひとつと、断片に切り刻む;

しかし、最高のレベルでは、大念住と大智慧は、同じように作意なく運用するのではあるものの、しかし、それらは同時に、一切に浸透する。

あの時、すなわち、それらが心の焦点の核心を点検している時、あの ”能知” の小さな点を除いて、その他の一切は、すでに点検され、捨棄されていた。

今、ここにおいて、明確になったのは、楽と苦を発する所の根源であり、光と闇ーーこの二つの異なったものが、同じ源から発生している事である。

なぜ、一粒の心に、それほど多くの性質があるのか?

次の瞬間、突然、一瞬間において、法が問題への回答をした。

一瞬ーー本当の一瞬の間!

これを ”法が心中から生起する” と言う。

煩悩が心中から生起するのは、我々のエネルギーを束縛する為である:

法が心中から生起するのは、我々にとっての束縛からの解脱である。

法は、突然、意外にも生起したが、それは心の内において、直接呼びかけるものであった:

闇であっても、光であっても、楽であっても苦であっても、このすべての二元は、無我である!

ああ!

最後において、無我が、これらをば、何の苦労もなく、滅し去ってしまった。

この最後の、疑いのない覚醒は、三つの相の内のどの相であってもよく、それは個人の根機と凛性による。

私は個人として、無我である。

その意味は非常に明確である:

すべてを手放せ!

それらはすべて、無我であるが故に。

(2-6につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>