私に大きく影響した<魂の本>と言えば、三冊あります。
一冊目はパオ・セヤドーの『智慧の光』(拙訳あり)
その前に読んだ「アビダンマッタサンガハ」(日巴対訳)も衝撃的でしたが、<締め>で言うと、先日翻訳を完成した『禅修指南』(Ven. U Puññānanda著)も、座右において、一生使えそうです。
ちょっとずるいですが、これ三冊を、一纏めにすると・・・、私に大きく影響を与えた本は、後ニ冊あります。
その出だしにある:
「人は何をしてもよく、何をしなくともよい」
という言葉。
20代だった私、その本の、一ページ目の最初の一行に、「えっ」と絶句したものです。
私は若い頃、正義感強く(同時に小心者でもありますが)、「世の中の不正は私が糺すのだ!」という強い意気込みを持っていました。
でも、人間存在の原点に帰れば、確かに、人は何をしてもよく、何をしなくともよい訳で(存在意義の多様性)、正義感から他人を斬ろうとしていた私は、目からうろこでした。
もう一冊は、書名は忘れてしまいましたが、日本の禅僧の著書で、その中の一行
「修行をすればするほど、自分は何も分からないことが分かる」
座禅・瞑想すると、思いや感情が色々湧いて来る事によく気が付く様になりますが、その思いや感情が、一体どこから来るのか、実はよく分からない・・・自分が座禅・瞑想する様になって、この禅僧の言う事がよく分かる様になりました。
私たちは、外部に漂う情報(波動の形態になったもの)を眼、耳、鼻、舌、身体で受けとめて、脳で情報を処理し纏めて、ああでもない、こうでもない、と言っている訳ですが、波動という形態の情報をキャッチする時に、すでに事実とはずれていて、脳が情報を処理する時に更にずれる・・・私たちは、五蘊を通して得る情報に、踊らされているだけで、実は、何年生きても、世(出世間的)の真実、真理に行きつかないのではないか?
元々、私たちには、<もの・こと>を確定、断定できるだけの、確固とした<立ち位置>というものは存在しておらず、故に、客観的真実とか真理とかいうものは存在しないのではないか?(アインシュタインの相対性理論)。
ゴータマ仏陀の述べた《五蘊無我》・・・<無我>が分からなければ、一生、外部情報に踊らされて生きる・・・自分では主体的に生きたつもりでも、それはただの《そんなつもり》・・・だった、なんて、虚しすぎますね。
さぁ、今日もコツコツ座禅・瞑想・・・
無常、無我が分かるまで。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>