Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

嫌いな人(自他不二)>還暦おばんの仏教談義―166

昨夜友人と「嫌いな人」について、ちょっとスカイプで話しました。

人は誰でも、苦手なタイプとか、嫌いなタイプの人っていますよね。

「いや、世界中の人、全部好き」なんてのは、偽善に決まっています (笑)。

 

で、「嫌いな人を、嫌いって言ってどこが悪い!」という、本音丸出しで生きて

行くのも、偽善よりはいいかもしれないけれど、人間としては進歩がない感じが

します。それで、最近、私に起こった事例を以下に書いてみます。何かの参考に

なれば、と思います・・・(一回出来たただけ、です。一回だけで偉そうに

いうな、はナシね~笑)。

 

週一回ある、某会合の会員さん、会合に来るときは、ブランド品のバッグに

高級そうな服を着て、いつも自分の服がどれほど高級か、という自慢話ばかりで、

それ以外の話はトントなし。私は「多少の自慢話は聞いてあげてもいいけど、

これ、毎回だとうんざりね」とちょっと彼女を軽蔑していました。

所がある時、いつものように彼女の自慢話をイヤイヤ聞きながら、あら不思議

「私はこんな自慢話する人嫌いだな」と思っている私の脳内の言語作用~脳内

の独り言~がストンと落ちた、無くなったのですね(いわゆる無念無想という

やつですが、一瞬の事です。無念無想が続いたら、それは死人ですから~笑)。

自分の脳内に「思考がない」、空白の状態が一瞬だけ出現したら、何が起

こったか?自分の心と彼女の心が直接つながって、彼女が「ああ、私の人生

は切ない。いかに家庭を切り盛りしても、誰も褒めてくれない」「せめて

自分の持っているバッグ、衣服はブランド物でかためて、会う人毎に<あら、

素敵、すごいわね>って言ってもらいたい」というような、どこにもいそうな、

普通の主婦の、心の叫び声が聞こえてきました。

私はその時「ああ、地位だ名誉だ、ブランドだといって心迷わせる人は、本当は

心寂しくて、かわいそうな人なんだな」と心の底から思い、彼女に哀れを感じま

した、憐憫の情でしょうか。

 

 

私も凡夫ですから、普通の意味で、気の合わない人がいるのは仕方ないと

して、あの体験以降、嫌いだからといって、こちらが上から目線で「馬鹿

よね、あの人」的な反応は、控えたいと思うようになりました。

 

 

仏陀が「慈・悲の人」といわれるのは、彼には他者に対する先入観、妄念や

妄想がなく、脳内はいつも青空のようにカラッとしていたから、人の悲しみを

いつも心で直接感じていたのだと思います。私はパオの瞑想と禅宗の座禅を

半々にするのですが、これまでの瞑想体験から援用して、これは「直接知覚

の一種」かなと思います。勿論、禅宗の僧侶、修行のプロの方は、ちょっと

違うよと言うかも知れませんが・・・、瞑想体験の話は難しくて、プロの僧侶

から見て、上記の描写や用語が間違っていたら、お許しください。。

(私は正式の誰かを、一生の師として、学んでいません。瞑想はパオ式が好き

ですが、仏教理論は独学ですので、用語に不正確な点がありましたら、

失礼します)。。。

追補:こういう、他者への憐れみを、実感を持って感じ、共鳴する心は

「自他不二」というのだそうです。この文章を書いてから、ある HP上 

で知りました。