Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵闘病記>自力と他力(不思議体験を踏まえて)~順不同

ここで、以前に予告してあった<自力と他力>について書きます。

一昨日(19日)は、アーナパーナサティ(息を観る瞑想)を<自力>、オンマニペメフムの真言を唱える事を<他力>としましたが、実は、観音様というのは、<自分の外にあってお願いすれば助けに来てくれる存在>ではなくて、<もともと、自分の潜在意識の中に眠っている、大いなる力である>という考え方もあり、それならば、オンマニペメフムも<自力>であるという事になります。

と、まぁ、ややこしい神学理論は横に置いて・・・、私が大学病院で手術した時の不思議な体験を書いてみます(サマーディに入っての体験なので、表層意識では理解しにくいかもしれません)。

2月3日、私は手術後(たぶん午後1時ごろ)、元いた自分の病室ではなくて、介護が行き届くようにという配慮で、ナースステーションに一番近い病室に戻されました。そこには、お腹を切られたばかりの患者が、私を含めて3名、ウンウン唸っておりました。医師が「やせ我慢しないで、傷が痛かったら鎮痛剤を打つので、看護師に申し出て!」と何度も叫んでいたのですが、私は「アーナパーナサティでどれくらい辛抱できるか試してみたい」と思って、息を観ながら、頑張っていました。しかし、2,3時間経つとアーナパーナサティによる集中力も限界になり、痛みを余り感じない時間と、とても痛く感じる時間が交互に訪れるようになりました。

それでもやせ我慢していると、心臓がバクバクし始めました。医師が側で「血圧200!」と叫んでいます。ところが、その瞬間、私(この<私>が一体誰なのか、説明するのが非常に難しいのだけれども、たぶん<認識主体>というヤツでしょう)は、自分の心臓のすぐ側にいて、自分の心臓を観ていて、かつ、心臓と対話しているのです。

心臓さん「あのね、貴女、アーナパーナサティして、一人でいい気になっているみたいだけれど、私は恐怖心と痛みで、バクバクして、とても忙しく働いていて、とても気分が悪いのよ」「普段血圧が120の心臓が、200まで上がってるでしょ!」「もう限界だから、何とかして!」「アーナパーナサティなんかやめて、なんとかしてちょうだい!」。

これ、真っ赤な鮮血の色をした、小型のチューリップの蕾のような心臓さんが、私に涙ながらに訴えている訳。色も形もはっきる観えるし、心臓さんの訴えも聞こえる・・・、我ながら、不思議・不思議・・・。

私は、アーナパーナサティが成功して、「傷なんかちっとも痛くなかったよ~」という、一種悟り体験、成功譚を狙っていたけれど、心臓さんの訴えを聞いて、これ以上無理するのはやめました。

私「ああ、心臓さん。バクバク、バクバク、つらかったねぇ」「アーナパーナに夢中で、気が付かないでごめんなさい」「今、先生が降圧剤打ってくれるから・・・、私、降圧剤、拒否しないから、もう安心していいよ」

かくて、私は心臓さんの為に降圧剤を受け入れ、自力によるアーナパーナサティを続けながら、半分を他力(医師による血圧のコントロール)に、ゆだねました。

私の場合、私のアーナパーナサティは未だ未熟で、心を息に止めながら、同時に、傷の痛みを冷静に観察する事は(ある程度)できていても、他の臓器、この場合は心臓さんですが、その心臓さんのフォローまでは、手が回らなかった事が挙げられます。

今回のこの体験をするまでは、自力と他力の違いがよく分からず、ただひたすらアーナパーナサティで頑張る事、即ち自力で冷静を保ち、ある種の悟り体験を得ようと頑張る事を善しとしていたのですが、人間、できないものは出来ない、のも事実。

こういう時は、早めに白旗を掲げて、他力に切り替える。これも一種の智慧かもしれません(こうして、私は長い間理解できないでいた「自力」と「他力」の内実の違いについて、初歩的な体験と理解を得たのでした)。

日本では、禅宗が自力派で、浄土宗が他力派。それぞれが「我こそが正しい」と主張している訳で・・・その辺の所が、もっとつっこんで分かるようになれば、おもしろいですね。ちなみに、台湾は禅宗一色で、かつ禅宗の中に浄土宗(南無阿弥陀仏)が含まれていて、禅宗と浄土宗は分かれていません。日本は、宗派分裂、しすぎなのか・・・???(笑)

 追補:自分(=自分の意識)が身体から分離して、自分の身体の一部である心臓さんの所へ行って、心臓さんと対話する。なんて不思議な体験でしょう。(実は、小さな細胞の一つ一つに意識はありますし、その細胞の集まりである臓器一つ一つにも、また意識があります。部分は全体であり、全体は部分、な訳です。宇宙と我々の関係もしかり、なのではないでしょうか?)。

ちなみに、私がアーナパーナサティでサマーディに入る体験を、生まれて初めてしたのは、23歳の時です。長男を出産する時、余りに陣痛が痛かったので、誰に教わるともなくアーナパーナサティをし始めて(その頃まだ師がいなくて、仏道の修行はしていなかった)、突然陣痛が止り、世界~病室と病院の外~が光り輝いているのをみて仰天した事があります。この体験は、15年後、タイのアーチャン(瞑想の師)に会って解明してもらうまで、ずっと意味が分かりませんでした。よい師に出会う事の大切さをつくづく感じます。