最近、園芸の雑談が続きましたので、法話を一つ。
子供の時から仏教書を乱読していた私。
でも、信仰系(浄土宗、日蓮宗)は興味なしで、読んでいたのは、もっぱら禅宗系。
で、禅宗の本には「随所に主となる」という文言が
<随所>にでてきます(笑)。
座禅・瞑想して30年、この言葉の言わんとしている事がようやく分かるようになりました。
それは<自分の起心動念=心の動きの初めから終わりまで>をしっかり見張っていて、自分が自分の心の主人として振る舞い、反対に、(自分の)心に振り回されてはいけない、という事。
これはゴータマ仏陀の教えた八正道の一支、サンマ・サティ(正念)に当たります。
ゴータマ仏陀が教えた瞑想<アーナー・パーナ・サティ(吐く息・吸う息を観察する瞑想)>を続けていると、自分の息が長いか短いか、によく気が付くようになります。
そして次には、心の動く瞬間を捉えられるようになります。心をもう一人の自分が観ていて、「あっ、まずい。必要以上に興奮している」とか「あっ、いらぬ妄想しちゃったな」とかが、(瞬時に)分かるようになります。
自分の心の動きを冷静に観察しているもう一人の自分は<明知>です。自分の思考、行動、行為にネガティブな部分があったら、それを瞬時に止めるか、止められなかった時は、後になって思い出して反省する事もできる・・・<明知>は賢くて謙虚で勇敢です。
<随所に主となる>とは、座禅・瞑想でサティ(=気づきの力)を育てて、自分の心を守り、後悔しない生き方をチョイスしていく極意、という事になります。
追補:私たちは、いつも誰々さんが悪いといって、他人に責任を押し付けがちですが、実は、他人の言動に振り回される未熟な自分の心が問題な訳です。ゴータマ仏陀は「六尺のこの体が全宇宙」と言いましたが、六尺のこの体に付随する六つの感受器官、これが私たち人間の、対象への判断の起点、と同時に、すなわち宇宙のすべてな訳です(自己の外に、客観的に外部世界が存在しているのではない、という事)。