南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

是誰庵仏教談義>ダライラマの法話

インターネットのニュースによると、7月6日はダライラマ

79歳の誕生日で、彼は滞在中のインド・ラダック(最後の秘境、

私が一番行きたい所)のレ―で、記念の法話を行った模様。

ニュースでは、法話の内容を一部しか紹介していなかったが、

こういうもの。

「現在、スリランカミャンマーでは、仏教徒イスラム教徒を

襲撃している」「これらの暴力行為は即刻やめること」「愛と

慈悲の人であった仏陀がご在世ならば、彼はイスラム教徒を

守るでしょう」と。

仏教とはなんでしょうか?それは、「自己とは何か?(その<自己>

が見ている世界とは何か?という命題も含まれますが、重要なのは、

すべての起点になる所の、<自己とは何か?>という命題の方です)」

という深淵なテーマを解く<鍵>になる思想、教えです。

故に心理学的でもあり、科学的でもあり、文学的でもありますが、

その教えの内容への肯定には、情緒的に流れるのではなくて、

修行よる体験の裏打ちを必要としています。

たとえば「人間には全部で20本の指がある」「しかし、たま

には指が一、二本多く生まれる人がいて、20本というのは絶対の

数字ではない」という人類共通の、普遍的認識がありますが、仏教

もまた、「自己とは何か?」という命題に関して、人類共通の認識を

得ようと努力する宗教です。そこには主観や、迷信の入る余地は

ありません(悟るまでは、トンチンカンな事をいう可能性はあり

ますが)。

そのように、<自己とは何かを探求する、智慧と普遍を基体とす

る宗教>である仏教が、自己の優位性を強調して他者を嘲笑したり、

他宗教、他宗派を暴力を持って襲撃するなどもっての他であり、

それはもはや仏教ではありえない、と言えるでしょう(<宗論は、

どちらが勝っても釈迦の恥>という言葉を思い出してください)。

私がタイで仏教を学んでいた時、アーチャン(指導僧)からこういう事

を聞きました。「本当に<仏教徒>と名乗れるのは、預流果(ヨルカ)

から以上の位を悟った人である。<仏教徒>とはすなわち、仏教のダル

マを悟った人間(聖者)だけに許される尊称であり、まだ預流果にも

なっていない人は仏教徒ではなく、<信者>という」と。

<信者>は、未だ悟っていないが故に迷信に陥りやすく、傲慢になり

やすく、他者への攻撃性を持ちやすい(私も、時々、それなら仏教を

学ばない方がよかっのではないか、という、迷信的で傲慢なタイプの

人物を見かける事がある)。

仏教を学ぶ者はつねに自戒して、人類(すべての有情を含む)の普遍性・

共通性に目覚めるよう努力し、仏陀の唱えた慈悲と非暴力を実践し

ければならない。

いつの日にか、真の仏教徒になるためにも。