本日のブログ記事
<般若の独り言~諸仏所教導之真諦>
の最後に書きました、仏教は信仰ではない、という事について。
先日、水中運動の仲間のおじさん(正確にはおじいさん)と話をしていて、私の次男がいまだ独身であるという事に話題が及ぶと「あなた(お母さんの?または息子本人の?)、信仰が足りないから、嫁が来てくれないのだよ」
と言われました。
仏教では、そもそも信仰(何かを信じればご利益があるというタイプの信仰)は、厳に慎むべきだ、といいます。
この世には世俗諦と究極諦があり、世俗諦はマクロの世界観、究極諦はミクロの世界観ということを、瞑想でもって体験したその貴重な真理を、広く世に弘めて下さった諸仏に、我々仏教徒は感謝し、かつその言説を<信>頼し、
<仰>ぎ見ることはあっても、理性の欠いた信仰とか、情熱に任せた盲信などとは、仏教徒は、全くの無縁なのであります。
日本語の<信仰>という言葉には、【とりあえず信じて、ついて行く】という語感があって、私は好きになれません。
中国語の<信仰(xinyang)>は、仏陀を<信>頼して、
<仰>ぎ見るというニュアンスがあって、私は、こちらを取ります。
<成仏><縁起><因縁>等の言葉もそうですが、日本の仏教用語は俗化した結果、本来の意味が見失われていて、非常に残念であり、危険でもあると思います。