南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー56

次の問題は、受が出現する前に、すでに無明、行、識、名色、

六入と触が具備されていることを、皆様に知ってもらうために、

どのように説明すればよいか・・・ということ。

しかし、これはそれほど難しい問題ではない。

罪深い一番の犯人は、受である。

我々はすでに、<受>とは何か、をみてきた。

それは、我々の日常生活の中で、不断に発生しているものである。

しかし、あなたが受について、もっと詳しいことを知りたいの

ならば、その前へ前へと遡らなければならない。

受は触からきており、触は境に応じた六入(当該の境によって

造作される六入)からきており、六入は名色からきている。

名色はどれか一つの識(当該の境によって造作された識)から

きており、識は行(当該の境によって造作された行)からきて

おり、行は無明よりきている。無明は、一回の流転・捻転の

始まりで、無明を取り除くことができれば、その他は

発生することがない。

ということは、(無明がないとき)苦を受ける名色、六入、触、

受はみな、生起することがなく、ただ苦のない現象が、

発生・生起するにすぎない。

このように、無明が存在すれば、苦を受ける名色、六入、

触と受が生起する。

私は再度、以下の事を強調し、皆様に自覚を促したい。

日常用語と、法の用語の違いを仔細にしっかりと理解して

頂きたい。<生>という文字は、日常生活の中では、

母親の子宮から生まれ出ることと定義されるが、

法の言語の中では、生は、ある種のものごとの生起をいい、

その作用によって苦が生じ、それは無明を根本原因としている、

と言っているのである。

例えば、今この時、名色は未だ生じておらず、「我(私)」

「我所有(私のもの)」(という感覚)はまだ発生していない

ので、あなたがここに座って、一生懸命お経を聞いている

として、その時は別に愛と取は発生しておらず、縁起は

生起していない。これを<自然の状態>という。

これまで私が(うるさく)言い続けてきたのは、縁起に

使われている言語は法の言語であり、特別の意味内容を

持っているものである事を、皆さんに理解して頂きたい

がためである。

縁起の言葉を、日常用語と混同してはならない。一たび混同

すれば、誤解が生じる。特に<生>という言葉については。

(つづく)

訳者コメント:精神世界の本で、よく<あるがままでいい>と

書いてあるものがありますが、これがくせもの。本当の

あるがまま、<自然の状態>で生きるというのがどういう

事か分かっていないと「私、あるがままでいいのね」と、

一時の自己満足、自己承認に陥り、しかし、実は、お悩み

解決能力ゼロ、なんてことがある。あるがままでいい、

という甘い囁きは、人を安直に安心させる<飴>であって

はならない。

あるがまま自由に生きるには、やはり相応の研鑽が必要では

ないか、と私は思う。

(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語

原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)