次の問題は、受が出現する前に、すでに無明、行、識、名色、
六入と触が具備されていることを、皆様に知ってもらうために、
どのように説明すればよいか・・・ということ。
しかし、これはそれほど難しい問題ではない。
罪深い一番の犯人は、受である。
我々はすでに、<受>とは何か、をみてきた。
それは、我々の日常生活の中で、不断に発生しているものである。
しかし、あなたが受について、もっと詳しいことを知りたいの
ならば、その前へ前へと遡らなければならない。
受は触からきており、触は境に応じた六入(当該の境によって
造作される六入)からきており、六入は名色からきている。
名色はどれか一つの識(当該の境によって造作された識)から
きており、識は行(当該の境によって造作された行)からきて
おり、行は無明よりきている。無明は、一回の流転・捻転の
始まりで、無明を取り除くことができれば、その他は
発生することがない。
ということは、(無明がないとき)苦を受ける名色、六入、触、
受はみな、生起することがなく、ただ苦のない現象が、
発生・生起するにすぎない。
このように、無明が存在すれば、苦を受ける名色、六入、
触と受が生起する。
私は再度、以下の事を強調し、皆様に自覚を促したい。
日常用語と、法の用語の違いを仔細にしっかりと理解して
頂きたい。<生>という文字は、日常生活の中では、
母親の子宮から生まれ出ることと定義されるが、
法の言語の中では、生は、ある種のものごとの生起をいい、
その作用によって苦が生じ、それは無明を根本原因としている、
と言っているのである。
例えば、今この時、名色は未だ生じておらず、「我(私)」
「我所有(私のもの)」(という感覚)はまだ発生していない
ので、あなたがここに座って、一生懸命お経を聞いている
として、その時は別に愛と取は発生しておらず、縁起は
生起していない。これを<自然の状態>という。
これまで私が(うるさく)言い続けてきたのは、縁起に
使われている言語は法の言語であり、特別の意味内容を
持っているものである事を、皆さんに理解して頂きたい
がためである。
縁起の言葉を、日常用語と混同してはならない。一たび混同
すれば、誤解が生じる。特に<生>という言葉については。
(つづく)
訳者コメント:精神世界の本で、よく<あるがままでいい>と
書いてあるものがありますが、これがくせもの。本当の
あるがまま、<自然の状態>で生きるというのがどういう
事か分かっていないと「私、あるがままでいいのね」と、
一時の自己満足、自己承認に陥り、しかし、実は、お悩み
解決能力ゼロ、なんてことがある。あるがままでいい、
という甘い囁きは、人を安直に安心させる<飴>であって
はならない。
あるがまま自由に生きるには、やはり相応の研鑽が必要では
ないか、と私は思う。
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)