我々は、大乗の信徒であろうと、小乗の信徒であろうと、皆同じ仏教徒であることを一たび認めたならば、「自我」と「無我」というこの問題をもって、二つの集団を区別する基準とするべきである。
どの宗派が、どの区分に属しているかと、明確に区分することはあまり適切ではない。
というのも、大乗仏教には多くの宗派があり、宗派毎に保持している観点はまた、お互いに異なっており、また、我々小乗仏教の中においても、大乗仏教の観点を有している人もいるからである。
(+状況は)上記のようであるから、大乗仏教と小乗仏教は、二つの派に区分することができる。その中の一派は、究竟的な真理(字面の上だけの浅薄な真理ではなく)として、真実の「自我」はあると認め、それは「涅槃」または「無為法」であるとしている。
この派は、この観点こそが仏陀の真理であり、かつ「無我」を主張する人は、仏法を誤解している、と考えている。
これが、一つの派の主張である。
もう一つの派は、仏教は「自我」を否定するという考えを堅持している。
万事万物は、最下層から最高層の涅槃まで、すべて「無我」であり「我というのはない」のである。
彼らの言い方にもとづけば、仏陀が述べた「自我」とは、世俗の用法であり、その目的は、世間の人々に仏法を理解してもらうためである、ということになる。
上記の事柄から、我々は以下のような結論を得ることができる:
(+ )(= )訳者。(つづく)
★誤字脱字を発見された方は、当コメント欄にてご一報頂くか、または<菩提樹文庫>まで。ご協力、よろしくお願いいたします。
訳者コメント:以前タイで聞いた話。ある人が阿羅漢を証した時、仏陀が眷属を引き連れてお祝いに来てくれたのが(禅定の中で)見えた。それで、体験を書物に発表した所、スリランカのサンガが<仏陀はもうどこにもいない、あなたに会いに来るはずがない>と言って猛反対。結果、この書物は禁書になったそうです。「それでも地球は回っている?」難しい問題ですね。
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>