(一)ある一派は、仏教は「自我」があると主張している。その上、仏陀は、人々にそれを追及するように言い、それに依拠せよと言ったのだ、ともいう(以後、この派を「有我論者」AttāvadĪと呼ぶ)。
(二)もう一つの派は、仏教は「無我」を主張していると言い、かつ、仏陀はそれを追及しなさいなどとは言っていない、反対に、我々に「自我感」または「自我」に関連する感覚を滅するように言い、そのようにすれば、我々は(+何らかの)庇護を追い求めることはなくなり、苦痛の中から解脱することができるのだ、と主張している(この派は「無我論者」AnattavādĪと呼ばれている)。
最後に我々は、双方の論争の焦点とは、「自我」か「無我」か(いわゆる「論争の争点」と言っても、双方の異なる観点の事を言い、喧嘩腰に言い争っているわけではない)にあることを確定することができる。
次に、我々は、この問題に深く分け入り、双方の持論の原因・理由を検討する。
以下の章において、私は、この、人をして困惑させる難題について、私自身の考えを表明してみたいと思う。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>