ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー30
我々は、仏法でいう涅槃は、すべての人々が、
最後には到達したいと願う究極的な目的で
あると信じるが、一つ例外がある--我々は、
因縁を創造することができ、この人生か、
または次の生で涅槃を証悟することが
できると思っている;また、我々は、因縁を
創造しないのであれば、涅槃を証悟する
ための時間は更に後ろに延び、そのために、
我々は、相当の時間、比較的低い境地に
とどまらなければならないのだ、とも
思っている。
その意味は、仏教は、因と縁の力を認め、
因と縁が変更不可能だとは思わず、そして、
この点がまさに末迦利瞿舎羅が完全に
否定した観点なのである。
この種の非仏教的観点は、「無因見」に
帰納され、その意味は、因果の観念を
欠いている、ということである。
言いかえれば、世俗のレベルでいえば、
よい(+ことをする)因、悪い(+こと
をする)縁の「自我」は、ないという
ことである。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>