ここの所、私の毎日の日課は、中国語の仏教書
を日本語に翻訳する事。
午後の水中運動とともに、やらないと、何か
落ち着かない、一つの確信的習慣になって
しまった(苦笑)。
インドで生まれた仏教を受け入れるに
あたって、サンスクリット仏典を、王様の
命で、チベット語に翻訳したわけだが、
その一番の遵守項目が「意訳しないこと」。
(意訳した翻訳官は斬首されたそう)
仏教書を翻訳していると、どうしても自分
の考えを反映させようとしてしまいがちです。
実は、日本で出版された、漢語タイプの
大正大蔵経も、中国人が読むと「ここ、
句読点の位置が間違っている」と感じる部分
があるそうで、それは、いまだに経典が完璧
な解釈がなされていない、ということを
意味します(それで、最近、台湾で元享寺版
大蔵経が出版されました。中国文化の人々
から見て、大正大蔵経の間違いと思われる
部分を改定した、というわけです。尼僧が
主導したそうで、台湾の尼僧さんは表
舞台には出てきませんが、なかなかの
good job です)。
で、私も翻訳をするときは、自分の意見を
反映させないよう細心の注意を払いますが、
これがなかなか、難しい。
「無我」という言葉一つでも、エゴがない
こと、実体がないこと、コントロールを
うけないもの、私というものはない、
真我、などなど、いくらでも解釈され、
その度、訳文が変わるからです。
とりあえず、私も王様に首を切られたく
ないので、仏教専門用語、キーワードは
ひたすら直訳・・ただし、中国と日本の
文化背景の違い、中国人と日本人の
語学センスの違い、中国語と日本語の
語順が違うことなどもあって、
直訳はこれはこれで、結構難しいなぁと、
は同じ語順)。。
閑話休題。。