私のブログを読んで下さっているPさんから、以下のようなコメントを頂きました(コメント自体は、記憶を頼りに書いていますので、多少の誤差はご寛恕を)。
1)<「身念処」1-9>に、「涅槃は常、楽、無我である」という翻訳文が見られるが、私(Pさん)は、「涅槃は常である」と書かれたスッタを見たことがない。出典はどうなっているか?
2)「涅槃は常だ」と規定したら、それは涅槃に実体があることにならないか?
というご質問でした。
以下は私のお答えです。
1)まず私は、法施として中国語の仏教書(主にタイ、ミャンマー等テーラワーダ系のもの)を日本語に翻訳して、Web上で公開している者です。
あまり意訳しないように気を付けて、<原文に忠実に>をモットーにしています。
もし、著書の内容が著しく私の意見と異なる場合(私も一応、テーラワーダで出家したsayalayなので、それなりの見解は持っています)、「訳者注:」という形で、「著者はこう主張しているが、私は納得していない」という一文を入れるようにしています。
しかし、だからといって、原文を歪曲して翻訳することは、決してありません。
2)では、<「身念処」1-9>にある文言「涅槃は常」というのを、ご自身(Pさん)は、スッタでは読んだことがないのだけれど、(翻訳者のあなたは読んだ事はあるのですか?)というコメントについて。
私が経典を読んだのは子供の時の事で、乱読でしたから、どこに何が書いていあるか、今では余り覚えておりません(子供心に一番好きだったのは『雪山童子』だったのは覚えています)。
また翻訳者としては、原文、すなわち著書に書かれている中国語に忠実に翻訳しますが、原文に余ほどの誤植がない限り、いちいち経典に当たる義務はない、と考えます。
翻訳者の義務は、原文に忠実に翻訳して、著者の考え・意見を、読者に紹介する事であって、著書の内容を批判する事ではありません。
著作の内容が、経典とは違う、自分の考えとは違うと思っても、翻訳に着手した以上は、歪曲することなく、正確に翻訳するのが、正しい翻訳者の勤めです。
ただし、明らかな誤植と思える場合、アビダンマッタサンガハやパーリ語辞書などに当たって、確認する事はありますし、書かれた内容が、余りに納得できない場合は、上に書きましたように、その部分に「訳者注」をつけます。
5)「涅槃は常で、楽で、無我」というのは、正しくないのではないか、というPさんからの問題提起。
私は、長年テーラワーダ系の中国語の仏教書を翻訳していて、何度もこの文言「涅槃は常で、楽で、無我」に出会っています。
反対に「涅槃は常でなく(無常?)、楽で、無我」という文言には、出会ったことがありません。
私としては、これまで翻訳してきたテーラワーダ系の僧侶が全員勘違いして、「涅槃は常で、楽で、無我だ」と書き続けてきて、誰もその間違いに気が付かない状況である、とは考え難いです。
是非、Pさんがご自分で、スッタを当たって、一体、涅槃はどのような言葉で表現されているのか、ご確認下さい。
6)Pさんは、「涅槃は常」と言えば、涅槃に実体があることになってしまって、仏陀の教えと異なるとお考えなのでしょうか?Pさんは、スッタに「涅槃は無常で、楽で、無我」と書かれているのを、確認されたでしょうか?
私は20年間仏教書を翻訳してきましたが、中国語で書かれたテーラワーダ僧侶の著書の中で、一度も「涅槃は無常で、楽で、無我だ」という表現に出会った事はありません。
私自身は、これまでの体験から、「涅槃は常で、楽で、無我」であろうと推測しています。
悟った暁には「あっ、しまった!これまで間違えていた」と思うかも知れませんが(笑)・・・今の所、私は「涅槃は常で、楽で、無我だ(+清浄)」と思っています。
私にとっては、涅槃に実体があるのかないのか、行ってからのお楽しみなのです(本来なら、<実体とは何か?(実体がないとはどういう事か?)>という議論、定義をしてからでないと意見交換はできないのですが、ここでは割愛させて頂きます)。
Pさんには、涅槃についての新しい発見がありましたら、ぜひご教授頂きたいと思います。
追補:
1)<「身念処」1-12>にもコメントを頂きました。なかなか難しい所です。ネン師の書いたタイ語を、中国語に翻訳する人が、正しく翻訳しているかどうか・・。
そんな訳で、私は内容云々するよりも、誤訳や意訳をしないよう気を付けています。
昔のチベットでは、経典の意訳をすると、翻訳僧の首が飛んだそうです(大量のサンスクリット経典が、仏教を受け入れた当時の王様の命令で、チベット語に翻訳された)。
経典は(たとえ書かれてある事柄が間違いであっても~宗派によって微妙に表現が異なったりする)直訳がよく、意訳や恣意的修正は、もっての外だそうです。
2)世界で最初に<0>を発見したインド人は、「そこには何も無い」という状況を表現する時、<そこには「0」がある>といいます。
故に、<何も無いという実相は、ある>という言い方も可能になります。
ですから、書物の中に<実相がある>という表現を見ただけで、この人は実体擁護派だ、と即断する事はできません。
仏法に関する言語表現は、インド人の言語ロジックをよく理解し、文章全体から判断するべきで、断章取義~文章の断片を切り取って判断すると間違えます。閑話休題。
<緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>