意識が「自我」か?
《布咤婆楼経》の内容は、遊行者布咤婆楼に
関する話である。
彼は仏陀のように、あちらこちらを遊行して
参学し、人心を感動させる教法を教授した。
ある日、彼は偶然仏陀を見かけ、
「想」(saññā)の止息(=生滅)、
更に詳しく言えば、意識の止息について、
仏陀と話しあった。
もし禅の修習と関係する言い方をするならば、
それは「意識」と「受」の止息の境地の事
ともいえる。
一人の人間の意識が活動を停止する時、
表面上では、死んだように見えるが、実際
には、死んではいない。
この遊行者は、仏陀に告げて言う:
学説的な弁論を行うとき、この命題は、
大きな論争を呼ぶだろう、と。
ある一群の人々は、「意識」は何物にも
コントロールされることはない。それは
自動的に生起し、消失する。それが人の身に
現れるとき、その人には意識がある、という:
それが存在しない時、その人には意識が
ないのであり、そして、このような生滅は、
遅かれ早かれ発生する、と。
別の一群の人々は、(+事実は)そのようでは
ないと言って、これに反駁する。
「自我」とは、結局は、一人の人間の意識
であり、「自我」が我々の身体に進入する時、我々は意識を具備することになる。
「自我」が離れると、我々は意識のない状態
になる。ひたすら「自我」が戻ってくるまで
待ってのちに、我々は、意識のある状態を
取り戻すことができる。
第三番目の群の人々は、前二者は、両方とも
間違っている、と言う。
実際は、この世界には、大きな能力を
持っている何者かがおり、彼は神秘的な
領域に住み、我々一人一人の意識の生滅を
決定している。
最後の一群の人々は、前の人々は、
皆間違っていて、実際は、神が、一人一人の
意識の生滅をコントロールしているのだ、
と言う。
最後に、この遊行者は、自分は仏陀の智慧
を信じ、かつ、仏陀が意識の息滅に関する
真実義を知っていることを認め、
ゆえに、仏陀にそれを開示してほしいと
願い出た。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>