南伝仏教のDhamma book

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ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー53

意識は「自我」ではなく、ただ単に持続的

に変化している現象である~

経文中の、奥深く精妙なる主題は、仏陀

教理によると、(前述した異なるレベルの

禅定の解釈の如く)生起した意識と消失した

意識は、決して同じものではない

(+と主張する)。

それらは、因と縁の条件に沿って、順序に

従って出現するもので、ただ連続して、

不断に変化しているものである。

この(+変化の)過程の中で、どの一部分を

もってしても、それら(=意識)の

「自我」であるとすることはできない。

仏陀が、一体全体、意識とはすなわち

「自我」なのではないのか、と問われた時、

仏陀は答える方法を知らないでいた。

というのも、仏陀の観点から言うと、

どのように考えても、「自我」というものは

ないからである。

お互いを理解し合うために、仏陀は仕方なく、

布咤婆楼の言う「自我」とはどういう特性を

もつものなのかを問い、先にこの遊行者に

彼の言説の意味する所を、簡単に述べさせた。

言い換えれば、まさに討論しているところ

のモノは、意識であるとか「自我」で

あるとかとは、言えないモノなのである。

というのも、先に生起した意識と、

後で生起した意識は、同じものではなく、

それをどうして、我々の根本的な「自我」だ、

なとど言えようか?

布咤婆楼は、意識と同じであるような、

いかなる「自我」の特性をも見つ出すこと

ができなかった。

このことは、彼は「自我」とは、人々が、

万物を感知するのに用いているものだと

考えていることを表している。

この種の言い方は、必然的に捨て去られる

べきものであって、また彼は感知(+する力)

をもたない「自我」を見つけ出すことが

できなかったし、また、根本的な「自我」も

見つけることはできなかった。

こういうことから、それらの意識を「自我」

と呼ぶのは、何の役にも立たないこと

なのである。

我々が忘れてはならないのは、遊行者たちは、

一種の先入的な信念を持っていて、

「自我」とは、一人一人の人間の中に

存在していて、まさに今、感じ、思考し、

また、一切の仕事をしているモノだと

思いなしているのだ、ということ。

仏陀は、我々は、己自身の中で、感じ、

思考できる「自我」などという個体

(=個人)を見つけ出すことなど

できない、ただ、因と縁の条件によって、

持続的に変化し続ける個体(=個人)または

現象があるだけなのだ、と言う。

(+ )(= )訳者。(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>