意識は「自我」ではなく、ただ単に持続的
に変化している現象である~
経文中の、奥深く精妙なる主題は、仏陀の
教理によると、(前述した異なるレベルの
禅定の解釈の如く)生起した意識と消失した
意識は、決して同じものではない
(+と主張する)。
それらは、因と縁の条件に沿って、順序に
従って出現するもので、ただ連続して、
不断に変化しているものである。
この(+変化の)過程の中で、どの一部分を
もってしても、それら(=意識)の
「自我」であるとすることはできない。
仏陀が、一体全体、意識とはすなわち
「自我」なのではないのか、と問われた時、
仏陀は答える方法を知らないでいた。
というのも、仏陀の観点から言うと、
どのように考えても、「自我」というものは
ないからである。
お互いを理解し合うために、仏陀は仕方なく、
布咤婆楼の言う「自我」とはどういう特性を
もつものなのかを問い、先にこの遊行者に
彼の言説の意味する所を、簡単に述べさせた。
言い換えれば、まさに討論しているところ
のモノは、意識であるとか「自我」で
あるとかとは、言えないモノなのである。
というのも、先に生起した意識と、
後で生起した意識は、同じものではなく、
それをどうして、我々の根本的な「自我」だ、
なとど言えようか?
布咤婆楼は、意識と同じであるような、
いかなる「自我」の特性をも見つ出すこと
ができなかった。
このことは、彼は「自我」とは、人々が、
万物を感知するのに用いているものだと
考えていることを表している。
この種の言い方は、必然的に捨て去られる
べきものであって、また彼は感知(+する力)
をもたない「自我」を見つけ出すことが
できなかったし、また、根本的な「自我」も
見つけることはできなかった。
こういうことから、それらの意識を「自我」
と呼ぶのは、何の役にも立たないこと
なのである。
我々が忘れてはならないのは、遊行者たちは、
一種の先入的な信念を持っていて、
「自我」とは、一人一人の人間の中に
存在していて、まさに今、感じ、思考し、
また、一切の仕事をしているモノだと
思いなしているのだ、ということ。
仏陀は、我々は、己自身の中で、感じ、
思考できる「自我」などという個体
(=個人)を見つけ出すことなど
できない、ただ、因と縁の条件によって、
持続的に変化し続ける個体(=個人)または
現象があるだけなのだ、と言う。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>