(五)最後に、我々は、「自我」の特殊な定義
を知らなければならない。
それは、ただ、世の中の人々が、「自我」と
(+いう一種)の身分として執着するところの
一個の名詞にしかすぎず、故に「自我」は
決して、出世間の境地で認められるもの
ではない。
ただ、それを取り除くべきだと論談する時、
ということは、人が、それに対する誤解を
取り除くべき時にのみ、認められるもので
ある。
故に、それは、ただの幻想または幻相の
代名詞であり、人がそれに執着する時にのみ、
それは存在する;
執着しない時、それは自然に消滅する。
それはたとえば、人が夢を見るとき、
夢の中の映像は、夢の中にだけ存在するのに
似て、人々が「自我」に執着するときにだけ、
それは存在する。
世俗的な名称、言語、表現方式及び定義は、
無知と感覚に先導されて会話をする凡夫が
使う、四種類の語法であり、もし、我々が
世俗的な言語でもって、涅槃を
説明しようとし、かつ涅槃を「自我」と
認定したいのであれば、我々はそうしても
よいかも知れないが、それは、子供を指導する
時と、なおも「自我」を擁したいと欲する人に
限るべきであるーーこれは一般的な世の人々の
傾向であるから(+そうするのも、やむを
得ないかも知れない)。
しかしながら、一般的に言って、このように
は、してはならない。
というのも、実際には、このようにすること
は、決して益するところを齎さないから
である。一人の人間が、心の中で「自我」に
執着する時、または執着しそうなとき、
それがほんの少しであったとしても、彼には、
涅槃を知る方法がなくなってしまう。
というのも、涅槃とは、ただただ「自我」
への執着を完全に取り除いた時にのみ、
証悟されるからである。
故に、一人の子供、または一人の大人が、
騙されて涅槃とは「自我」のことだと
思いなしたとして、かつまたそれでもなお、
真正の涅槃を知り、かつ、それを「自我」
だと言って執着することについて、我々は
決して信を置くことができないのである。
もし、彼らが、何ものかに執着すると言う
ならば、それは絶対に、無明の類の煩悩から
生じており、故に彼らは、それを捨て去る
ことによってしか、仏陀の言う涅槃に
到達することはできない(というべきある)。
(+仏陀の提唱する)この種の涅槃は、その他
の宗派の涅槃とは異なっている。というのも、
その他の宗派の涅槃は、心の中に些かの
「自我」が残ることを、許しているからである。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>