南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

ブッダダーサ尊者「無我」著(翻訳文)ー64

(五)最後に、我々は、「自我」の特殊な定義

を知らなければならない。

それは、ただ、世の中の人々が、「自我」と

(+いう一種)の身分として執着するところの

一個の名詞にしかすぎず、故に「自我」は

決して、出世間の境地で認められるもの

ではない。

ただ、それを取り除くべきだと論談する時、

ということは、人が、それに対する誤解を

取り除くべき時にのみ、認められるもので

ある。

故に、それは、ただの幻想または幻相の

代名詞であり、人がそれに執着する時にのみ、

それは存在する;

執着しない時、それは自然に消滅する。

それはたとえば、人が夢を見るとき、

夢の中の映像は、夢の中にだけ存在するのに

似て、人々が「自我」に執着するときにだけ、

それは存在する。

世俗的な名称、言語、表現方式及び定義は、

無知と感覚に先導されて会話をする凡夫が

使う、四種類の語法であり、もし、我々が

世俗的な言語でもって、涅槃を

説明しようとし、かつ涅槃を「自我」と

認定したいのであれば、我々はそうしても

よいかも知れないが、それは、子供を指導する

時と、なおも「自我」を擁したいと欲する人に

限るべきであるーーこれは一般的な世の人々の

傾向であるから(+そうするのも、やむを

得ないかも知れない)。

しかしながら、一般的に言って、このように

は、してはならない。

というのも、実際には、このようにすること

は、決して益するところを齎さないから

である。一人の人間が、心の中で「自我」に

執着する時、または執着しそうなとき、

それがほんの少しであったとしても、彼には、

涅槃を知る方法がなくなってしまう。

というのも、涅槃とは、ただただ「自我」

への執着を完全に取り除いた時にのみ、

証悟されるからである。

故に、一人の子供、または一人の大人が、

騙されて涅槃とは「自我」のことだと

思いなしたとして、かつまたそれでもなお、

真正の涅槃を知り、かつ、それを「自我」

だと言って執着することについて、我々は

決して信を置くことができないのである。

もし、彼らが、何ものかに執着すると言う

ならば、それは絶対に、無明の類の煩悩から

生じており、故に彼らは、それを捨て去る

ことによってしか、仏陀の言う涅槃に

到達することはできない(というべきある)。

(+仏陀の提唱する)この種の涅槃は、その他

の宗派の涅槃とは異なっている。というのも、

の他の宗派の涅槃は、心の中に些かの

「自我」が残ることを、許しているからである。

(+ )(= )訳者。(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>