ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー65★
「自我」とはただ人々の無明の妄執に
すぎない~
ここで再度の総括をしておく:
仏陀が常々言及する所の「自我(ママ、以下同様)」
は、ただ無知なる人々が、自然(=知らず
知らずのうちに)に、「自我」として執着
しているだけのモノである。
前述したとおり、正確な言語で説明するなら
ば、それは、人々が常々執着する、三種類の
形式で出現する。
「自我」または「自我」とみなされるモノは、
世の中の人々が、その無明によって執着して
いるモノであり、それが、比較的高度なレベル
において出現しようとも、または比較的低級な
レベルにおいて出現しようとも、すべて無明で
あることには、変わりがない。
こうしたことから、「自我」の特徴を確定する
のは難しい。
というのも、それは、どのような人間が、
どのようなモノを「自我」とみなすかに
よるからである。
ただし、それへの呼び方が(+それぞれに)
異なるとしても、一つの共通の特性があるーー
無明が執着を造る基礎である、ということで
ある。
この意味は、「自我」と称されるモノは通常、
執着する者の知識水準によって変化するため、
一人一人異なり、時間ごとに、異なるという
ことである。
これはまさに、牛乳の派生物または牝牛の
作り出す栄養豊かな美味なる食品に似て、
ある時には牛乳と呼び、別のある時には
凝乳、バター、乳酥または凍乳と言い、
結局の所、牛乳の派生物の意味・内実は、因
と縁の条件に基づいているだけであって、
それは自然的に形成され、かつ持続的に
変化する、種々の元素でしかないのである。
化学は、それらが何の元素でできているか、
及び、どのような変化を引き起こすのかを
解釈するのが、非常に得意であるが、
しかしながら、我々は、それらを牛乳の
派生物またはある種の特殊な奇妙なモノだと
見做さない方がよい。
以上、仏陀が述べた「自我」に関する特徴を
十分に説明したので、我々は、仏陀がこの
名詞を使うとき(たとえば、仏陀は:
「『自我』は『自我』の拠り所である」と
言ったりする)、実際には、人々との交流の
ために、世俗の言語を借用しているのであり、(+彼は)この名詞を使う人はどんな人間で
あるのかに、執着することはない。
このことから、我々は、世の人々が執着する
所の「自我」とはどういう意味であるか、
を理解することができた。
しかし、もう一つ別のレベルの「自我」が
ある。ある種の人々は、超凡なる「自我」が
存在すると執着しているわけだが、これは一種
の清浄で、かつ究極的な智慧で、それは
前述した三種類の形式の「自我」をす
べて取り除いた時に発生するか、または、
禅の修習において、この三種類の「自我」が
徐々に消滅した時の境地の中に、発生する。
(+ )(= )訳者。句読点原文ママ。
(つづく)
訳者コメント:「自我は自我の拠り所で
ある」は、中村元先生は、「己を己の拠り所
として」と訳されていると記憶しています。
上記訳文では、<原文まま>としました。
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>