パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)~4-50
これはちょうど、一人の人間が、山の上から駆け下りてきて、頭に乗せてあった重い荷物を降ろした後、背筋を伸ばして立っている時の様に、彼の呼吸は粗くてはっきりしていて、鼻から呼吸するだけでは足りず、口でも呼吸するのに、似ている。
しかし、彼が疲れを取り除き、沐浴し、水を飲み、ぬれたタオルで胸を冷やし、木陰に座って休むとき、彼の呼吸は微細になり、ある時には、自分が呼吸しているのも分からない場合さえある。
この人間とは、禅の修行をした後の、呼吸が非常に微細になった比丘を譬えたもので、その意味は、彼は、自分が呼吸をしているかどうか、判断がつかなくなる、という事である。
それはなぜか?
いまだ禅の修行を始める前、(+彼は)粗くてはっきりした息を、いかに静かにするかという問題について、覚知し、専注し、反省し、または思惟したことがないから、である:
一たび、禅の修行を始めた後であれば、彼はこの問題に気が付き、注意をするようになる。禅の修行をする時の息は、禅の修行をしていない時よりも更に微細である。
故に、古代の論師は:
「揺れ動く心・身においては、息は粗くてはっきりしており:静かな心・身においては、息は微細になる。」と言ったのである。
彼はどのようにして、「私は、(息の)身行を静めて息を吸う;私は、(息の)身行を静めて息を吐く。」というこの種の考え方でもって、己自身を訓練するのか?
息の身行(kāyasaṅkhāa)とは何か?
呼吸自身と関係するか、または、緊密に呼吸に属する事柄を、息の身行と言う。
彼は息の身行が静まるように、平穏になるように、安寧になるように、己を訓練する時、以下のような思惟をもって自分自身を訓練する:
「身体が前にかがむとき、横に反るとき、各方面に反るとき、及び後ろ側に反るとき、息の身行を静める。
また、身体が移動する時、震える時、震動する時、揺らぐ時を利用して、息の身行を静めるのである。
私はこのようにして、息の身行を静めて呼吸する。
身体が前にかがまない時、横に反らないとき、各方面に反らない時、移動しない時、震えない時、震動しない時、揺らがない時、私は、これらの安寧、微細な身体活動を利用して、息の身行を静めて呼吸する。」
ここにおいて、私はすでに、安般念によって定力を育成する四つの段階について解説を行った。
すなわち、以下のものに専注する事:
1.長い息;
2.短い息;
3.全息(=息全体);
4.微細な息。
(+ )(= )訳者。句読点原等文ママ。。(5-1につづく)
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>