<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
8-6-5 心がコントロールされるべき時にコントロールされる
人は、どのようにして、その心がコントロールされるべき時にコントロールされるか?
心が、あまりにも強すぎる恐怖心と喜悦で動揺する時、彼は択法、精進と喜という、この三種類の覚支を強化してはならず、彼は軽安、定と捨という、この三覚支を強化しなければならない。
世尊は言う:
「比丘たちよ。
心が動揺している時、その時は、軽安、定と捨を強化する時である。
なぜにか?
比丘たちよ。心が動揺する時、これらの覚支は、心を平静にすることができるが故に。」
比丘たちよ。
もし、人が、大きな焚き火を消したいと思ったとき、湿った草、湿った牛糞、湿った木材を火に投げ入れ、水を掛け、その上に砂をかけるならば、彼は火を消すことができるだろうか?」
「はい、尊者」
「同様に、比丘たちよ。
心が動揺する時、その時は、軽安、定と捨を強化する時である。
なぜにか?
比丘たちよ。
心が動揺する時、これらの覚支は、心を平静にすることができるが故に。
そして、比丘たちよ。
すべての時において、念はつねに有益であると、私は言うのである。」(《相応部》)
(5-62につづく)
(訳者コメント:ラべリングの瞑想を実践して、精神的に追い詰められたり、体調を壊す人がいますが、当該<No.5-61>を参照されれば、禅病を治すことができると思います。老婆心まで)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点原文ママ。
★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。
ご協力、よろしくお願いいたします。
<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>