<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
あなたの(+仏法に関する)基礎が強固になった時、あなたは多くの先生について学んでも、よい。
その時、あなたは、涅槃へ向かうための、多くの道を学ぶことができる。
その後、あなたは自分自身が、真正の、善くて巧みな教師になることができる。
(+もし、あなたが)異なる性質をもつ人々に対して、異なる修行方法を紹介することができるようになれば、それは、ゴータマ仏陀と、少しばかり、似ているかもしれない。
良い禅の指導者は、良い医師のようだ。
良い医師は、異なる病人に対して、いつも同じ調子で、一種類の薬しか出さない、ということはなく、先に病人を検査し、病人のそれぞれの体質と症状、また、何を必要としているかを理解する。同様に、良い禅の指導者は、異なる学生に対して、いつも同じ調子で、一種類の業処しか紹介しない、という事はなく、先に学生を観察し、学生のそれぞれの性格、煩悩(=悩み、喜怒哀楽)と、彼が必要としているものを理解し、その後で初めて、学生自身の状況に適合する業処を紹介し、与えるのである。
しかしながら、非常に重要なことは:
どのようにして良い教師を見つけるのか?という問題である。
一体どのような人が、良い教師なのであろうか?
《清浄道論》に基づけば、良い教師(善友)とは、以下の特徴を具備するものである:
すなわち、能力において、以下のような人は、あなたの先生になるに相応しい人である。
(3-4につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
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ご協力、よろしくお願いいたします。
<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>