Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

☆「掌中の葉」(翻訳文)4-2

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

これが、なぜ、通常の場面において、大部分の禅師が、ただ、己自身が自ら証悟した(+修行の)道筋しか話せないのか、ということの理由である。

彼らは、己自身の、長年の苦しい修行を通して、最終的に、己自身の性行(=性格と行い)に合致する方法を発見した、という訳である。

しかしながら、彼らの修行方法は、彼らと全く正反対の性行の修行者にとっては、役に立たない。この性行における巨大な差異は、各自の宿世の習気(=習慣と気質)と、今世の文化的背景の差異から来ている。

たとえば、お互いに挨拶をする時、中国人は「今天不錯(=今日は悪くはない)」と言って、今日の一日がまんざらではないような表現をする。しかし、西洋においては「今天不錯」は、悪い意味も含まれる。こういうことから、西洋人は、暇で退屈な時にだけ「今天不錯」と言う。

故に、善くて巧みな禅師は、異なる性行の学生に対して、異なる修行の業処を紹介するのである。

教育体系の差異もまた、教師と学生の溝を作り出すことがある。現代の教育体系は、理知の育成に重点を置いていて、情緒の健全な育成を疎かにしている面がある。そのため、現代人の定の修習においては、往々にして、脳を使用することに偏重している。

過度に理知を用いて、禅の修行の目標に専注する為に、禅の修行においては、頭痛を生じさせるということが起こっている。

実際、止禅の正しい発展においては、健全な情緒の強化に頼らなければならない。

現代文明に影響されていない田舎の人々は、かえって情緒や知恵が高く、ゆえに、定の修習が楽に進捗する、幸福な人となる(+事が多い)。

彼らは、情緒を過度に緊張させる事が習慣になっていないし、また、己自身をストレスにさらす事もしない。ゆえに、止禅の修行を始めると、思い通りに修行が進むのである。

こうしたことから、現代人(多くは、瞋性行衆生に属する。己自身と他人に、過酷に要求する)を指導する時、教学については緩くして、情緒の育成に重点をおくために、修行に関しては、快適で優美な環境を選ぶことが多い。個人の性行を理解することは、個人の修行方式を理解することでもある事が分かる。

上記のように、性行上の差異によって、定の修行方式やモデルが決定される事を理解したならば、あなたは種々の異なる禅の修行方法において、混乱を感じることがなくなるであろうし、また、(+己が)ある種の禅の修法に取り組んでいるからといって、その他の禅の修法を、批判したりすることはなくなる。

≪増支部・三法集・第65経≫の教えをしっかりと覚えておき、広い心と計らいをもって、更に多くの、根源を極め、貪・瞋・痴を断ずる事から離れない、色々な、善くて巧みな法門を受け入れなければならない。

各種の法門の中から、己自身の性行に合致する方法を選び出して修行に取り組み、己自らの身を持って、貪・瞋・痴を取り除く事のできる方法、それが、信心(=仏法への信頼)の立脚点となるのである。(4-3につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>