<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
メーチ・ケーウは、毎回、身体を観ずる度に、形象が、地水火風に分解される真迫の様を、見た。
彼女は、死なないものは無い事を、はっきりと知った。
頭髪、爪、皮膚、肉、骨は、夫々、彼らの元の元素に戻り、ただの地大になった。
地大は一体、過去において、死んだ事があるだろうか?
身体の各部分が分解される時、それは、何になるのか?
それらは、皆、己本来の元素に戻る。
地大と水大は、彼ら本来の元素に戻り、風大と火大もまた同じであり、その中の何者も、決して壊滅する事はない。
四大が聚合して、一つの躯体となり、心識はここに、安住する。
心は、この物質が、組成されて、その結果、己に命を与えてくれた事に執着し、その後に、それを自我(=己自身)だと見做し、どこへ行くにも、それを背負って歩いた。
心が、色身を自我(=己自身)だと執着する為に、無尽蔵の憂いと悲しみと苦悩が、やって来ることになった。
同様に、心もまた死んだ事は、ない。
その一番の特徴は、立ち止まらずに変化するもので、一刹那毎に生まれては死に、生まれては滅し、尽きない意識流の中で、一つまた一つと接続しながら、生じては、滅し去るのであった。
メーチ・ケーウは、四大が、己自身の本質へ帰って行くのを徹底的に見れば見るほど、心に益々の納得を得た。
どこに、死等というものが、あろうか?
死とは、何であるか?
四大ーー地水火風ーーは死なない;
心に至っては、どのようにすれば死ねると言うのか?
メーチ・ケーウは、この点を領悟(=納得して悟ること)すると、心は更に顕著に、覚知は更に強く、内観は、深く徹底したものになった。
甚だ深い禅定から出て来ると、メーチ・ケーウは、この、深遠なる影響力を持つ、微細な形を有する色身を、観察した。
彼女は、身体感覚とは、実は、一種の自我意識であり、生まれてからこの方、人は、己の身体による感知を尊んで生活を組み立て、本能的に身体を保護し、その他の物質的需要を賄ってきたのだと、知った。
彼女は、身体を基礎として生じる所の、数々の想いは、結局は、輪廻生死の業因である事を、明確に知った。
身体に内在する不浄は、その外貌と比べて、非常に深刻であった。
身体を根源とする心態(=心の様子)と行動は、人に反感を感じさせるだけでなく、害がある。
虚栄心、淫欲への耽溺、性暴力、肢体による暴力等は、その内の、比較的厳重な醜い行為であるといえる。
これほど多くの、ネガティブな思想・思考と感情の根源としての身体は、心を道連れにして、輪廻の根源に結び付けようとする。
彼女は、もし、身体が執着する所の根源を追求するのならば、汚染された思想、思考と感情、及びそれらを誘発する意識を、直接調査しなければならない、と思った。
(5-26につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は
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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」Dhammavamsa Publication
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>