もう20年前かそれ以上前、日本にテーラワーダ旋風が吹き荒れました。
スリランカの某長老が、マハーシ瞑想法を紹介して、これまで禅宗の座禅で上手く行かなかった人、念仏は迷信みたいで嫌だという人たちの心を引き付けたのです。
では、マハーシ瞑想は何をするかと言うと、腹部の起伏に注意(専注)しながら、己の身・心に起きている現象にラべリングを入れる、というもの。
私もやってみましたが「痛み」「怒り」とラべリング入れていくと、自分の知らなかった本来の自分を発見したような気持、自分がえらく聡明になったような気持ちになったものです。
しかし、半年後に気が付きました。
身体の変化は非常に速く、心の動きはもっと速い。
刹那に変化している身・心の動きを、いちいち言葉で確認していたら、身・心上に実際に生じている現象を見落としてしまう(「痛み」「痛み」と黙念している内に、痛みはチクチクした感じに変わり、チクチクはかゆみに変り、かゆみはこそばゆい感じに変わり・・・、要するに一秒後には痛くなくなっているのに、まだ「痛み」とつぶやいている私~笑)。
緬甸(ミャンマー)の孫倫(Sunlin)・セヤドーはこう言っています。
「マハーシ・セヤドーと董布魯(dongbulu)・セヤドーの方法は、観念的な修行法で、直観的智慧を生じえない。
我々は、あそこが痛い、こちらが痒い、体を曲げた、伸ばした等と、身・心の現象を概念化するならば、それは己自身で幻想を生みだしているようなもので、一体いつになったら、如実なる観照ができるだろうか?
それらの過程に概念を被せなければならない、どのような必然性があるのだろうか?
あなたが身・心に起こる現象の過程を、直接掌握できない(=如実に知見できない)のであれば、解脱への智慧を得られる事はなく、解脱の道に到達する事もない。」
(『邁向見法涅槃』p114 、122より抜粋・翻訳)
また、パオ・セヤドーは著書『智慧の光』の冒頭で、一度も禅定に入らないまま実践する刹那定は、真実の刹那定ではないと述べています。
ラべリングは初心者が半年ほど取り組むにはいいけれども、長期的にやるものではない、と私も孫倫セヤドー、パオ・セヤドーと共に、一言、ご注進申し上げます。