<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
マレーシアから「此是道汝応修」という本が届きました。
著者はアチャン・チャーのお弟子さん、アチャン・タン。
その中にとてもよい問答を見つけましたので、翻訳(番外編)してお送りします。
問:アチャン・タンにお伺いします。あなたは出家後、どのような研究をして、どのような事に腐心しましたか?
あなたは、どのような本を読むように、どのような研究をするように、他人に勧めますか?
答:私は修行を始めてこの方、私の、この身・心を研究しています。
どのような本を読んでいるかと問われると、本はほとんど読んでいません。
また、みなさんに、正式の仏教の研究を大量にするのは、お勧めできません。
これらはまったくのムダで、最も大事で、すぐ取り組まねばならないのは、禅の修行です。
もし、あなたが本を読むのは、心を静かにするためであれば、それはいい事です。
例えば、心がイライラする時、それに見合った仏教書を読んで、心を鎮め、その後に禅の修行をするならば、それはいい事です。
もしあなたが、あまりに多くの理論を研究するならば、それは禅の修行の障礙になります。
あなたが座禅・瞑想する時、心は、これは近行定なのかジャーナなのかを知りたがり、また、心は、今の境地が、自分の学んだ経典とどう違うのかと考え始めます。
こうなれば、あなたは内観する事ができなくなるか、または心が更に深い境地に入る事ができなくなるでしょう。
ただ、私は、森林の禅師の伝記を読む事をお勧めします。これらの伝記は、我々の道心を励ましてくれますし、また教育的な要素もあります。
これらの本を読めば、彼らがどのように修行し、どのような生活を送ったのかを知る事ができます。(中略)
身体を観ずる事ができるようになると、心を観ずる事ができるようになります。
ある種の人々は、ただアチャン・チャーの教えの後半だけを重視して、彼がどのような修行から始めたのかを忘れています。もし、修行者に、いまだ身体への執着がある時、心を明晰に観ずる事はできません。
初心者にとって放下(=手放す)という事はそれほど簡単な事ではないのです。故に、初心者がアチャン・チャーの教えた<手放す>をスローガンにする事は、あまりお勧めしません。(後略)
(アチャン・タン著「此是道汝応修」P 20、21を抜粋して翻訳。一部意訳。
中国語版→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay)
彼は大学を卒業している修士です。それでも、多すぎる知識は、修行の邪魔になると言います。
私も、アチャン・タンと同意見です。
日本では今、パーリ語学習が流行っていますが、我々は、パーリ語で悟る訳ではありません。
日本語でよいので(パーリ語は要点だけ押さえて)、ゴータマ仏陀が何を言いたかったのかをよく理解し、噛みしめて、日々、地道に修行するのが王道です。
ゴータマ仏陀は言いました。
「私の法を学ぶ者は、自分自身の(里の)言葉で学びなさい」と。
学者ならいざ知らず、修行者がパーリ語やアビダンマの知識を競うなど邪道です。
心を内に向けましょう。
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
<緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>