南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

般若の独り言~rūpakalāpaを見るまでは(1)

私は子供の頃から仏教が大変に好きでした。

3歳の頃の、最初の記憶は:

「今度は、女の子に生まれて来てしまったけれど、どの様に生きればいいのかなぁ」

と、一人考えあぐねているものでした。

5歳の時に、<お富さん>という歌謡曲を聞いて初発心し(その中に「お釈迦様でも」という語彙が含まれていたので)、その後はうなされる様に

「ゴータマ仏陀は、何を教えて後、涅槃したのか?」

「涅槃とは何か?」

「刹那生・滅とは何か?」

「無常・苦・無我とは何か?」

を知りたいと思い続け、大乗経典からそれらが学べないと苦悶していた 25、6歳の頃、世に大乗非仏説のあるのを知った後、大乗を捨てて、もっぱら中村元博士の原始仏典を読む様になりました(現在は、大乗経典の存在価値は、それなりにあると思っていますが、やはり今も、南伝アビダンマが一番好きです<注1>

その後、30歳過ぎた頃、ふとした縁で、タイの森林僧院(アチャン・チャーの系列寺院)に、修行に行く様になりました。

夜、タイの森の中で、出家比丘と在家が、声を合わせて《大念処経》を唱える時、なぜか涙がホロホロとこぼれたものです。

私はお経としては四法印を説く《雪山童子》が好きですが、《大念処経》をパーリ語で聞いていると、なぜか泣けてくる・・・ゴータマ仏陀が、直接語りかけてくる様に思えて、パーリ語、好きですね。

私自身は「年頃になったら恋愛して結婚、共働きしながら、子育てにテンヤワンヤ、老境に入って一息ついた」そんなどこにでもいる、一人の平凡な女性ですが、それでも己自身の一生のテーマ

「無常・苦・無我」

が、少しずつ姿を現してきて、今は

「rūpakalāpa の無常・苦・無我を見るまでは死ねない」

と思っています。

もはや、棺桶に片足つっこんでいる今となっては

(来年古稀)、後何年、修行できるか分かりませんが、認知症が出るまでは、修行したい(笑)。

私は、台湾が日本の植民地であった時代に、台湾から日本(神戸)に移住してきた移民の三代目、三世になります。

今、日本では移民問題で揺れていますが、子供の頃から今までの体験、見聞を少しずつ、折に触れて、書いてみたいと思います。

お題は『rūpakalāpaを見るまでは』。

よろしかったら、お付き合い下さい。

注1:大乗経典には、それが成り立つ理由、時代背景があるのだと思いますが、私は独学のため、その時点では、大乗経典を正しく理解する事ができないでいました。日本の大乗仏教界の現状は、本来の大乗の精神と大きくずれていると、思います。

  <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>