南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

「身念処」3-2

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

鋭利な実相般若は、我々(+修行者)の邪見をば、修行者自身の感覚の中から、根こそぎ取り除く為、今、修行者は、身・心の自然な真実の状態(実相)を見る事に成功した。

修行者がこの智を成就する時というのは、それをば自ずと知るのであり、それは、ちょうど飴を食べるようなものであるーー他人に飴の味を、教えて貰う必要は無いのである。

阿含経の中で、仏陀は言う:

「法は、智慧によって直接体験・証悟する事ができる」と。

法とは、教師があなたに、あなたがどのような智慧を成就したのかを解説する必要は無いものなのであるーーあなたは己自身の体験によって、法を知る事ができる。

ある時には、修行者は、己自身がすでに、ある種の智慧に到達する事に成功したと思うのだが、しかし、確実でないような時、すなわち通常の場面において、自信がない時、彼はいまだ、その階智に到達していない可能性がある。

この階智は、見清浄と言われる。

というのも、体験・証悟するその一刹那には、煩悩が存在しないからである。

しかし、この種の正見は、いまだ三法印を真実に体験したのではない。それ故に、無常・苦・無我を見る(観る)ためには、更に進んで修行をする必要がある。

この智(第一階智)は、修行者の「拠り所」とすることができる。

というのも、修行者は、己自ら、実相の滋味を味わったからである。

それはちょうど、飴を食べるかのようで、修行者が第一階智を体験・証悟したという事は、彼がそれを直接味わった、と言う事が出来る。

これより先、彼には、「彼」が座っているのではなくて、色身が座っているのだ、という事が明瞭に理解される。

「彼」が見ているのではなくて、「心」が見ているなど等ーー更に一歩進んで、彼は一つひとつの、彼が見る所の有情は、ただ単に、心に過ぎないという事を知るのである。

この時から、名色(身・心)が、彼の教師となる。

(3-3につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>