<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
しかし、この失明者はその服に対して、すでに強烈すぎる程の執着を擁していたので、母親の言う事を聞き入れず、この服を着続けて、あちらこちらに自慢して回った。
母親は思った:
「今、残された唯一の方法は、己の着ている服を、自分の目で見て確かめさせる事しかない。」
それで、彼女は彼を眼医者の所に連れて行って、息子の目を治してもらった。
彼は、己が着ている服が、己が想像していたのとは異なって、黒くて、またボロボロであるのを見て、騙されたのだと思って、非常に怒り、すぐさま服を脱ぎ捨てた。
彼は今、彼が執着し、追い求めた所の「白い服」を捨て去る事ができた。
なぜか?
彼は「白い服」の本当の姿を知ったが故に。
【ここにおいて、無痴は、縁法で、手放す事ができる(+という現象)は縁生法で、縁力は因縁である】
この失明者が、己の着ている服が、黒くてボロボロである事を知らないのと同じ様に、衆生は欲楽に迷い恋々するのは、衆生の心識の中に、いまだ無明、痴が存在していて、それが慧眼を覆っていて、物事の真相を見る事ができないが故である。
ひとたび無明が取り去られた時初めて、我々は欲楽の真正なる禍を知ることができ、この時、初めて(+執着を)手放すことができる。
みなさんご承知の通り、欲楽は、確かに楽しみを齎すが、しかし、欲楽もまた無常であり、変化するものである。
たとえば、我々は通常、身体を通して各種の欲楽を享受するが、しかし、我々の身体は、絶え間なく変化しており、衰弱し、病み、最後には死亡する。
もし、この事を見ようとしないのであれば、我々は必ずそれ(=欲楽)に執着する。
しかし、我々がこの身体をして無常であるものと見做す事ができるならば、我々は、この変化し、無常で、常に生・滅するものは、依存するに値わないと知るのである。
依存することができないものに対して、我々はどのように対応するべきであるか?
それへの執着を放下すのである。
執着の放棄、それこそが解脱の道なのである。
(1-11につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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(『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>