★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》3-4
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
註釈書(a ṭhas ālinī aṭhakathā ママ)には、どのように説明されているであろうか?
「思心所」は、助教のようだ、と言う。
授業をする時、教師は、授業だけ担当すればよいが、最も苦労するのは助教である、と言う。
彼は、教室内の秩序を保たねばならないし、学生たちが学習に専念できるよう、学生たちの管理もしなければならない。
助教は、彼自身も教師の授業内容を聞かねばならないだけでなく、その他の学生よりも尚、しっかり学ばなければならない。
「精進」(vīriya)もまた、心所の内の一つではあるが、しかし、最も力のあるのは、「思心所」なのである。
故に、(+人が)何事かをなしている時の「思心所」は、その他の心所を帯動する。
というのも「思心所」は、主要な首領であり、であるからこそ、業と呼ばれるのである。
善であっても、不善であっても、業を造(ナ)す時、「思心所」は、善または不善をなす所の、業の当事者なのである。
一つの例を挙げよう:
たとえば、多くの人々が輪になって、一人の人間を打ち殺そうとしている、とする。
その内の一人が、最も強くて力があって、その人間を打ち殺したならば、最終的に裁判になった時、(+犠牲者を)生きながら打ち殺してしまったこの人物が、最も重要な犯人である、という事になる。これは、不善業関連の思心所である;
善業も同じように、思心所が、最も重要な役割を果たすのである。
思心所と信、精進、念、慧は、みな共に、同じ心所であるが、しかし、一つ一つの事柄において、思心所が(+一番)、主要な役割を果たしている。
こうした事から、「業」は、(+上記五項のうちの)どれに当てはめるのが、最適であろうか?
Cetanāhaṃ bhikkhave kammdṃ vodāmi(ママ)
(3-5につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>