★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》3-3
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(+我々が)熟睡している時は、唯一、前世の業の果報のみが、生じている。
この果報心は、非常に安定していて、静かである。
速行心は全くの反対で、それは非常に活発で、異熟心のように静止している、という事はない。
たとえば、私が今、声を出している時の心、その心の中には、相当に多くの、速行心が含まれている。
というのも、これらの速行心の激発によって、声が、相当、明晰に出るようになり、そのことによって発声ができるようになるからである。
速行心の激発は、声をば、相当明晰にならしめるが、それは、録音を希望している人がより良く録音できる為と、在席の法師及び居士の方々全員に、法の義を理解して頂きたい(+という私の心遣い)が故である。
私は、ただ単純に声を出すだけでなく、心理的にも、各種の気遣い、期待が含まれているのだが、気遣い、期待が、最も多く含まれる速行心の内、思心所は、最も強くて力があるのである。
「思心所」とは、責任者のようなものである。
たとえば:
ある一場の会議において、そこには必ず主席、責任者、会員たちがいるものであるが、これらの人々の中で、最も責任が重いのは、責任者である。
彼は、会場全体にかかわる諸々の事柄を処理し、スケジュールを管理し、参加者が、最も素晴らしい成果を得られるように、非常に努力する。
主席は会議の司会を担当するものの、最も気遣いをし、心を砕くのは、責任者である。
(3-4につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>