先日、私が当ブログにて
「正念とは、業処を忘れない事である」
「マインドフルネス(=気づき)は仏教用語では<正知>または<威儀路明覚>と言う」
と書きました所、コメント欄に
「タイのアチャン・チャーも、緬甸のウ・ジョティカ大長老も、マインドフルネスで悟ったのだ。正念(パオ・メソッド)でしか悟れないというような誤った情報を書くな」というお叱りを受けました(9月25日『正念の誤解』コメント欄参照の事)。
私は:
「パオ・メソッドだけが正しいとか、パオ・メソッドでしか悟れないとは思っていないし、また、ブログにそのように書いた事はない。
その証拠に、私は当ブログで、アチャン・チャー、アチャン・マハーブーワ、メーチ・ケーウなど、タイの、悟ったと言われている方々の著書も、翻訳して公開しています」
とお返事申し上げました。
今現在、その指し示す内容、定義を、はっきりさせた方がよいと思っている仏教用語に、vipassanā、正念、刹那定があります。
<刹那定>については、非常な速度で刹那生滅する色聚(素粒子またはクォーク)を直接追跡して認知する定(近行定レベル)の事、と定義できると思います(想像ではなく、直接知覚できている事、すなわち、色聚とその識別・分離を、心眼で<手に取るように>見ている事)。
世の中、無常・苦・無我の理法(と涅槃体験)を悟った人は大勢います。その方法は多種多様です。
臨死体験で無我を悟ったラマナ・マハリシ、同じくある日突然、無我を悟ったタイのアチャン・ネーン(悟った後説明に困り、アビダンマを学んだ後、説法を開始)、アビダンマの試験には落ちたけれど阿羅漢になられたアチャン・チャー(ご本人は阿羅漢と呼ばれたくないそうです)、西欧社会に影響を与えたクリシュナ・ムルティはソータパナであったろうと言われているけれども、彼は「悟るのに方法はない、教師はいらない」と言っているくらいです(彼も頓悟派なのでしょう)。
私自身は、パオ・メソッドが好きですが、世の中の修行方法を、それ一色にする事などできません(世の中を、仏教一色にする事もできません)。
次の頁では、私がこれまで翻訳した仏教書の一覧を掲載しますので、ご参考下さい(「智慧の光」「如実知見」は、WEB上のどこかで見つける事ができると思います。「覚知、念と定」は<菩提樹文庫>にあります。)
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>