Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

スポット翻訳【般若の智慧のなかりせば】(J-1)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(原文P213)

禅修行者:

禅師、あなたは<智慧でもって観照する>という文章の中で、択法について述べていますが、択法自身と、その重要性について、解説して頂けますか?

禅師:

vipassanā の修行は、智力による作業である為、択法は極めて重要です。

vipassanā の目的は智慧であって、あなたが智慧を獲得したいのであれば、智慧から始めて、智慧でもって、智慧を修しなければなりません。

この事は、私が常にあなた方に言っている事:

”我々は皆、凡夫である。凡夫の定義とは `’いろいろな煩悩に覆われている者’ です。

それなのに、なぜ、あなたは、煩悩の無い状況の下で、私の指導に従って、禅の修行が出来る、と言うのでしょうか?

我々は、煩悩に満ち満ちていて、煩悩の無い状況の下で修行する事はできない。

では、我々は、何を、どこから、始めればいいのでしょうか?

凡夫には ”明” に関する情報が必要です。

智慧を含んだ情報を手に入れて、禅の修行を始めます。

すべての凡夫は、煩悩に満ち満ちていますが、また同様に、いくばくかの、智慧を持っています。

仏教では、智慧を三種類に分類しています:

聞慧、思慧、修慧です。

聞慧は、情報であり、常識でもあります。

思慧は、あなたの智力を運用して、理性的に思惟し、ロジックを組み立て、推理します。

修慧は、vipassanā であり、択法は、思慧の範疇に入ります(訳者注)

<訳者注>択法に関する解釈・定義について、パオ・セヤドーは、vipassanā における業処・所縁への正しい認識、選択である、と述べていますが、ここでは、原文通り翻訳します。

(J-2 につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。

<《Awareness Alone is not Enough》より改題/抜粋翻訳

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>