<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
観(法随観ーー五取蘊)
故に、仏陀は《大念処経・法随観》の中において、この種の観智を教え、教導した。
【次に、比丘たちよ。
比丘は五取蘊に対して、法随観法において住する。
比丘たちよ。
比丘は、どの様にして、五取蘊に対して、法随観法において住するのか?
比丘たちよ。
ここにおいて、比丘は[了知する]:
1)’これは色である、これは色の集である、これは色の滅である;
2)これは受である、これは受の集である、これは受の滅である;
3)これは想である、これは想の集である、これは想の滅である;
4)これは行である、これは行の集である、これは行の滅である;
5)これは識である、これは識の集である、これは識の滅である。’
この様にして、或いは、内において法随観法に住し、
あるいは、外において法随観法に住し、
あるいは、内と外において法随観法に住し、
あるいは、法随観における生起する法において住し、
あるいは、法随観における滅し去る法において住し、
あるいは、法随観における生起する法、滅し去る法において住する。
彼が ’有法(=法がある)’ という念を現起(現象)させるのは、ただ智と憶念のレベルにおいてである。
彼は依する所なく住し、また、世間の一切に執着しない。
比丘たちよ。
比丘は、五取蘊に対して、法随観法において、住する。】
比丘は、”内、外” において法随観法するということは、五蘊の過去、現在、未来、内、外、粗さ、微細、劣等、優秀、遠い、近いを観照することであり、また、”これは色、これは受、これは想、これは行、これは識”と了知する事でもある。
この種の了知は、苦聖諦の認知と理解に相当する。
仏陀が比丘に ”法随観法の生起、壊滅において” と言う時、それはすなわち、比丘が五蘊の ”生起” と ”滅没” の随観を修習する事を指しているのである。
(3-38につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。
<『涅槃証悟の唯一の道』パオ・セヤドー著 (原題「証悟涅槃的唯一之道」)
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>